Chapter2 結婚生活ー自宅編
2-1 同居、始めました
東京に戻り弁護士から契約内容のOKが出ると、私達はすぐさま、婚姻届を提出しに行った。私は事務的に手続きを進めただけで、結婚した、という実感は当然ながら、全くない。
そして、結婚からそう日を空けずして、例の土地の売買契約が、無事に成立した。相当の金額を払ったらしいが、私は詳しくは知らない。関係する社員が現地に出入りしたりで、オフィスはかなり騒然としていた。
翠明堂の社員はもちろん、弓月と私の結婚を、全社を挙げて祝福してくれた。忙しい出張の合間に皆が予定を合わせて一流ホテルで結婚お祝いパーティを開いてくれて、私は硬直した笑顔で彼らの祝福を受ける。私の隣で堂々と彼らに対応していた弓月とは対照的に。
弓月は、私を育ててくれた桐谷家にも挨拶に訪れてくれた。叔父も叔母も大喜びで、特に桐谷に至っては、歓喜のあまり号泣していた。桐谷は、親友と私が結婚したのがよほど嬉しかったらしい。弓月にしつこくハグして、弓月に嫌がられていた。
そんな祝福ムードが少し落ち着いた週末。私は、一人暮らしをしていたアパートから、弓月の自宅マンションに転居することになった。長期間別居生活をしていると、周囲に偽装結婚を疑われる可能性が高いからだ。だが、引越し業者に転居先の住所を伝えて荷物を送ったはいいものの、実は私は、弓月の自宅には、未だかつて一度も訪れたことが無かった。
「結婚相手の自宅も知らないって……はあ。本当に、規格外過ぎるよね、この結婚。ていうか、弓月さんと同居って。なんか実感無いけど……大丈夫か、私?」
弓月は私の引越し荷物の受け取りがあるので、自宅で待機中だ。私は彼に教えてもらっていた地下鉄の最寄り駅を降り、地図アプリを見ながらモタモタと弓月の自宅を目指す。
弓月のマンションは、都心の高級住宅街にあった。私は朝から引っ越し作業をしていたのもあり、ラフなTシャツとゆるパンツ姿だ。私、明らかに、この街から浮いている。
私は、ドキドキしながらマンションの高級感漂う広いエントランスに入り、インターホンで言われた部屋番号を押した。305。ここは3階建ての低層マンションで、弓月の部屋はどうやら最上階らしい。
『……はい』
「あっ、あの、紗良です! ごめんなさい、遅くなって」
『どうぞ。ちょうどさっき、荷物が届きましたよ』
「あ、はい!」
私は慌てて中に入る。1階には、広いラウンジやコンシェルジュカウンターがあった。スーツを着て微笑んでくれるコンシェルジュのお姉さんにヘラヘラ笑い、エレベータホールに行く。ホテルのような重厚な黒とブラウンの落ち着いた内装は、どこもかしこも、磨き上げられてピカピカだ。
(ひえー。私の住んでた2階建てアパートと大違い。格差社会すご……)
私が言われた部屋のインターホンを押してじっと立っていると、ややあって弓月が出て来た。今日はゆったりしたアイボリーのシャツとパンツ姿の弓月は、言葉少なに言った。
「どうぞ」
「あっ、はい! お邪魔します!」
長い廊下を抜けて、リビングに招き入れられる。広い。それが、私の最初の印象だった。角部屋の3LDK。窓が広くて、室内はとても明るい。低層住宅街で最上階なのもあって、見晴らしに抜けがあり解放感も抜群だ。
キッチンでグラスを手にした弓月が、気怠そうに言った。
「貴女の荷物は、そこのベッドルームにまとめて入れてもらいましたよ。随分荷物が少なくて、助かりました」
「あっ、はい。家具は全て処分して来たので……と言っても、ほとんどありませんでしたけど」
引越し前に2人で相談して、大型の家具は持ち込まないことにしていた。なんでも、この家の家具は、弓月の知り合いのショップのもので統一しているらしい。私はそもそも所有物が少なくて、ちょうど良かったかも。ここにある素敵な家具は、とても私の予算では買えそうもないものばかりだ。
弓月が水を飲みながら眠そうに言った。
「ベッドだけは先に購入しておきました。クローゼットは作り付けのもので十分でしょう。あと必要なものは、順次買い足す、ということで」
転居にかかる費用も、弓月が全て持ってくれるらしい。私は慌てて頭を下げる。
「あっ、はい! お手数かけてすみません、ありがとうございます!」
「……とりあえず、うちの紹介だけはしておきましょうか。貴女、初めてでしょう、うちに来るの」
私はこくりと頷く。弓月は微かに笑って、廊下の先に立って案内してくれた。どの部屋も南向きで広く、明るくて綺麗だ。唯一、書斎の扉だけは半開きになっていた。室内にはブラインドが半分下りており、PCの前に書類やドリンクのボトルなどが散乱している。夜通し、仕事をしていたのだろうか……。弓月が「すみませんね、散らかっていて」とさりげなく扉を閉めた。
書斎の隣はメインベッドルームだった。クイーンサイズのベッドは使用感がなく綺麗に整えられていて、私はなんとなく、昨夜弓月がここできちんと眠れたのか心配になる。廊下を挟んでベッドルームの向かいには、大きなバスルーム。テレビドラマで見るような、マーブルの広くて豪華な浴室だ。弓月が言った。
「こちらはメインバスルームです。貴女の部屋の方にも、少し面積は狭いですが、シャワーブースが付いていますのでね。そちらを使ってくれてもいいし、浴槽につかりたければ、こちらのメインの方を使って下さい」
私は「は、はいっ」と頷いた。なんとなく……弓月のベッドルーム前にあるお風呂に入るのは気まずいので、私はもう一つの方でいいかも。リビングに戻って来ると、弓月が言った。
「ああ、そうそう。家の鍵を渡し忘れていました。エントランスのオートロックと、部屋と、これ一本で開きます」
弓月は私の手に鍵を落とす。
「……何か質問は?」
その声が掠れている。見上げると、酷く疲れた顔をしていた。あまり、眠れていないのだろうか。私はふるふると首を振って、言った。
「大丈夫です! ひとまず私、届いた荷物の開梱をしますね。……というか、弓月さん。随分、お疲れのようですけど。ちゃんと、お休みになっていますか?」
「……ええ、まあ。ご心配は無用です」
弓月はそう言ったが、私の目は、リビングの棚の上に放り出してあった処方箋に吸い寄せられていた。
(……睡眠導入剤……弓月さん、やっぱり、あんまり眠れないんじゃ……)
私は、弓月を見上げ、おずおずと言った。
「あのう。差し出がましいようですが……私の観察眼によりますと。弓月さんは、あんまり、眠れていないんじゃないかと、推測されるのですが……」
弓月は片眉を上げて私を見下ろした。私は慌ててぴょこんと頭を下げる。
「あっ、すみません。めっちゃプライベートですよね? でも……」
「……貴女ね。観察眼って。単に、そこの薬、見ただけでしょう」
弓月は、はあ、とため息をついてそれを棚にしまった。
「うっかり、片付けるのを忘れていました。自宅に人が入ることは、あまり無いのでね。……まあ、別に、大したことありませんよ。たまに、忙しすぎると、そうなるだけです。脳が興奮状態になるんでしょうね」
私は「はあ……」と言いつつ、思い切って、切り出す。
「あ、あの!! もし良かったら!! 私……お休みになるサポートしますけど!!!」
「え……?」
眉を寄せる弓月に、私は手をひらひら振って、笑顔で言った。
「ご存じの通り。私、人を眠らせることが出来るので!」
「え……でもそれは、確か、3分だけ、とか言ってませんでした?」
「はい、直接的には。でも、体が睡眠を求めている状態でしたら、私の力がきっかけで、そのあと、体本来の力でぐっすり眠れますよ。一度、試してみませんかっ?」
私の言葉に、弓月は「しかし……」と躊躇するように言った。
「その力は……かなり特別で……貴重なものでしょう。こんな……下らないことに使うべきではないのでは?」
意外。この人って、プライベートでは割と謙虚なんだ。仕事中は、かなり強引な感じがするけど。私は内心驚きながらも、首を振る。
「下らなくないです。眠れなくて困っている人を助けるのも、女神の巫女の役目なので。私達、人には知られずに、意外とこっそり、社会の役に立っているんですよ!」
私は、これまでの人生で数えきれないほど、色々な人に、密かに【まどろみの花】をプレゼントして来た。激しく喧嘩している人。失恋して眠れない、と痩せて行く友人。もちろん、眠ったり、ぼんやりしたりしても危なくない環境にいる人限定だ。誰も、私の能力だなんて気付いてもいないだろうけど。
私がニコニコ弓月を見上げていると、彼は、戸惑ったように言った。
「……お願いして良いものか、よく分かりませんが……」
「平気です!! 任せて下さい!! ほら、行きましょう! 弓月さんは、ベッドに横になっててくれるだけでいいんで!」
「え、ええ……?」
弓月は私の勢いに押されるようにして、ベッドに横になった。彼は遠慮がちに横たわっていて、なんだか可愛らしい……って、年上だし、上司だけど。私は、彼のそばに膝をつき、目を閉じて精神を集中する。私の体に満ちる、冴えた感覚。
(咲け、まどろみの花!)
私の両手から放たれた光の蕾は、弓月の上に舞い降りて花開き。弓月の瞳が、ゆっくりと閉じる。ものの1分とせずに、弓月は、すやすやと安らかな寝息を立て始めた。
「……弓月さん、よっぽど疲れてたんだ……良かった、眠れて」
私はほっと息をはき、弓月にブランケットをかけて部屋を出る。あの様子なら、きっと暫く目を覚まさないはず。その間に、とりあえず、荷物の開梱をしておこう。私は、どうやら私の部屋……らしい一室に入った。明るくて広い部屋の窓際には、某有名ブランドのベッドフレームとマットレスが置いてある。
「ひえー……私の使ってたやつと大違いだ……寝心地が良すぎて、却って落ち着かなかったりして……」
フローリングの床にぺたんと座り、段ボールを開梱して行く。出せば出す程、みすぼらしい物ばかりな気がしてきた。
「うわぁー……なんかこのお鍋とか、持って来る意味、あったのかな……」
それでも、一応私物なので愛着もある。私はたった7箱の段ボールを開梱し終えると、立ち上がった。
「4時か……どうしよう。弓月さん、まだ寝てるっぽいよね……」
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