第13話:オトポール

 1938年3月のことである。バイカル湖近辺に於いて発生したユダヤ人難民は、樋口少将の斡旋のもと堂々と満州国に押し寄せた。通称、「満州事件」である。だが、事態はここから二転三転することになる……。

「彼らをアメリカ合衆国に入れない!?」

「正気か」

 アメリカ合衆国へ亡命を希望している彼らをなぜアメリカ合衆国に入れないのか。満州に受け入れを許可した当の本人がそれを言い出したときには一同面食らったものであるが、それにはきちっとした論理と、それにも勝る切実な形而下現実的理由が存在した。

「……簡単な話です、日独防共協定というものは防共協定に過ぎません。故にアメリカ合衆国に行きたい者は乗せるとしても、日本にとどまりたい者が居ればその者は日本にとどまらせようと思った次第にて」

 それは即ち、反ユダヤの急先鋒とも言いうるドイツ第三帝国に対する大日本帝国の回答とも言うべきものであった。彼らはユダヤ人をこれ見よがしに保護することによりドイツ第三帝国への「ある種の表明」を行うと共に、資本の有無に拘わらず一度満州国という地域ある種の楽園をユダヤ人に見せて、大日本帝国のユダヤ人社会へのある種のアピールをすることにしたのだ。

「……ああ、そうかい」

「では何故、アメリカ合衆国行きの切符を発行しない?」

「それなのですが……」

 そして、その「形而下的理由」、即ち物理的な理由なのだが、それは、大日本帝国だけではかなり解決が困難なものであった……。


「上海に輸送船がない!?」

「一応、アメリカの租界は存在するようですが、もぬけの殻でしてな」

 上海の輸送船舶は、既にアメリカ合衆国市民が祖国への脱出のために全て使っており、如何に大日本帝国の商船隊が世界第二位に迫らんが程の第三位だったとしても、大日本帝国の商業に影響が無いレベルでの輸送を行うとすれば非常に難解な程のスケジュールを組む必要性が存在していた。

「……通州事件か!」

「お察しの通り。故に我らは今暫く、彼らを養う必要が御座います」

 数万のユダヤ人を、満州国に留めるのは即ちそういった理由であった。何せ彼らをアメリカ合衆国に護送しようにも船舶が足りず、また船舶が足りたとしても今輸送を行うのは余り宜しからざる時勢でもあった。

「……まあ、数万人の食費に困るほど我らの国力は低くは無いが……」

 実はこの発言、かなりの割合で嘘である。大日本帝国という地域は、はっきり言って養える人口に比べて現状はそこまで余裕のある人数ではなく、故の満州国開拓や南米移民という意味も、ある程度の割合で存在していた。とはいえ、それは表向きには伏せられていることもあり、筆者も半信半疑どころか無信全疑なのだが、情報を得ては居るので読者に考慮させるためにもここに記すだけ記しておく。

「……樋口くん、君はどう考える」

「下手にアメリカ租界の上海に押し込めるよりは、満州国へとどめた方がいいかもしれません」

「……だろうな。私も同意見だ」

 上海は、発展した都市ではあったが故に略奪の対象にもなり得、その上狭い居留地であった。少なくとも、いきなり万単位での移民を受け入れられる程確りとした土地とはお世辞にすら言い難かった。

「然らば、手配して参ります」

「ああ、くれぐれも「例の地」は見られんようにな」

 例の地、まあ言うまでも無く満洲の油田なのだが、その注意喚起は、既に遅く。

「……そのことなんですが」

「おい、まさか」

「……まさかです」

「なんてこった……」

 そう、ユダヤ難民は満州の油田地帯を見た。見てしまったのだ!無論、彼らは距離の問題からそれを油田だと認識していなかったが、情報の多さは時に誤断に繋がる。だが、そこから更に予想も付かない方向に物事は流れ始める……。

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