第二章 面影と黒衣
第二章一話 面影と黒衣
季節外れの風が吹く午後、遥は古びた駅前のベンチに座っていた。
待ち合わせの予定も、帰る理由もない。ただ、人の流れをぼんやりと眺めている。
誰かの背中を探すように。
亡霊を目で追うように。
半年――
碧人が逮捕されてから、もうそんなに経つ。
あの人が犯したとされる罪状はあまりにも重くて、新聞やニュースが連日取り上げていた。
世間の評価は冷たく、裁判は進み、証拠も出揃っていた。
なのに、遥はまだ信じ切れずにいた。
(優しかった……あの人は、確かに優しかった)
だから、忘れられなかった。
彼の過去も、名前も、手のひらのぬくもりも。
今日もまた、似た誰かの背中を追ってしまう。
そんな日常の一コマに――“彼”は現れた。
交差点を渡る青年。
どこか見覚えのある横顔。伏し目がちに笑う口元。碧人に、似ていた。
遥の足は、気づけば彼を追っていた。
遠くから見る限り、別人にしか見えない。けれど、たまに振り返る横顔の輪郭が、妙に懐かしい。
彼の名前を知っているわけでもない。ただ、心の奥がざわついた。
そして、ふと――気づいてしまった。
その青年の後ろを、黒い影がついて歩いている。
冬のコートのような長い黒衣。顔はよく見えないが、どこか人間離れした空気を纏っている。
遥は、思わず立ち止まった。
(また……だ)
黒衣の男。それは、かつて自分に憑いていた“死神”と同じ姿だった。
あの「烏牙(うが)」とそっくりな雰囲気。背格好も、佇まいも、すべてが。
違うのは、銀色の長い髪と烏牙ならこちらの目線に気づき、時折視線を交わしてくたであろうことだ。
この男は、遥にまったく気づかず、青年の背をじっと見つめている。
遥は意を決して、距離を詰めた。
そして声をかけようとしたそのとき――
青年がふと立ち止まり、黒衣の男も同じように動きを止める。
遥が近づくと、黒衣の男がこちらに気づき、目を見開いた。
「……お、お前……なぜ……?」
男の顔から血の気が引くように、驚きと恐怖が浮かび上がる。
その反応に、遥も息を呑んだ。
やっぱり、“見えてはいけないもの”だった。
黒衣の男は信じられないという表情のまま遥の目を見つめる。
「おかしい……俺は、あの男にしか見えないはず……! なぜお前が……!」
その声は震えていた。死神とは思えないほどに、人間臭い恐怖の色が滲んでいた。
遥もゆっくりと歩み寄り、男の目を真っすぐ見た。
「あなた……死神なんでしょ?」
男は言葉を失ったように黙り込む。
その一瞬、時間が凍ったような静寂が降りた。
背後の青年――篠原奏が、遥の存在にまったく気づかぬまま、少し先で立ち止まり、また歩き出す。
「……あの人、もうすぐ死ぬの?」
遥の問いに、男はしばらく黙っていたが、やがて呟いた。
「……十日。あと十日で、あいつは死ぬ予定だ」
その声は冷たく深く沈んだ響きがあった。
遥の心が、暗い闇に飲み込まれた。
せっかく興味を持てた人だったのに。
ほんの少し、話してみたいと思えた人だったのに。
(また、こんな形で“終わり”を知らされるなんて……)
遥はゆっくりと目を閉じた。
そして、見えてしまう自分のこの“力”を、呪うように唇を噛んだ。
「十日で……死ぬ?」
遥は、思わず声に出していた。
信じたくなかった。死神がそう言う以上、それは“確定した未来”なのだと、身に沁みて理解しているはずだったのに。
目の前の黒衣の男――奏の背後に憑く死神は、まだ困惑した様子で彼女を見ていた。
その視線には警戒と興味、そして恐怖が入り混じっている。
「……お前、本当に何者だ? なぜ、私の姿が……」
「……わからない。けど、私、以前も“死神”を見たことがあるの。私に憑いた死神。 烏牙って名前の……」
男の表情がわずかに変わった。驚き、そして納得。
「烏牙……なるほど、そうか。 お前が――“あの例外”か」
「例外?」
「お前の名は中庁でも知られている。“死を越えた観測者”。
本来、死神は“死ぬ者”にしか視認されない。だが、お前は制度の外側に立った。だから見える。干渉できる。
お前は……均衡を崩す存在だ」
遥は言葉を失った。
制度? 観測者? 均衡?
難解な言葉が頭の中で渦を巻く。
「……彼は、何も知らないまま、死ぬの?」
問いに、死神は答えなかった。
その沈黙がすべてを物語っていた。
遥は黙ってその場を去った。
その背中に向かって、死神は低く呟いた。
「……干渉するな。これは、あいつ自身が選ぶべき死だ」
帰り道。
夜風が吹き抜け、遥の髪を揺らす。
足元に落ちた枯葉が、カラカラと音を立てた。
ふと、反対側の歩道を、フードをかぶった少年が歩いていくのが目に入った。
顔は見えなかったが、どこか沈んだ気配をまとっていた。
(あ……)と小さく息を飲むが、そのまますれ違った。
何でもない。たまたま視線が合っただけ。
でも――ほんの一瞬、胸の奥に棘のような違和感が残った。
世界のどこかで、知らないうちに何かが狂っている。
そんな気がしてならなかった。
第二章二話 静かなる予兆
篠原奏(しのはら そう)は、無口な青年だった。
誰かに対して壁を作っているわけではない。
ただ、言葉というものが、どこか自分には不器用すぎる気がしてならないのだ。
気の利いた言い回しができず、人の目を見て話すのもあまり得意ではない。
それでも、職場の人々は彼を好いていた。
町の小さなホームセンター。配送と品出しを任される正社員。
決して要領が良いわけではないが、手は早く、真面目で、礼儀を欠かさない。
年配の女性スタッフからは「奏くん」と親しげに呼ばれていた。
「ありがとうって言える子は、ちゃんと育ってる証拠よねぇ」
「ほんとあの子、昔の人みたい。丁寧で、素直で……」
誉められると、奏は決まって「いえ……」と小さく笑う。
それは照れでも謙遜でもなく、本当に自分はそういう人間ではないと思っていたからだ。
彼は“善人であろう”と努めているわけではない。
ただ、できるだけ、誰も傷つけたくない――それだけだった。
冬の寒い日、有給消化のため半休で午後に帰宅し、スーパーの袋をぶら下げながら歩いていると、川沿いの歩道で小さな男の子が泣いているのが見えた。
近くに大人の姿はない。
ランドセルを背負って、靴が片方脱げたまま。片手には破れた図工袋。
川の方を指さして泣いている。
奏はそっと近づいた。
「どうしたの? 怪我はしてない?」
子どもは最初こそびっくりしたようだったが、やがて涙声で言った。
「……ボール、落ちちゃって……だめって、いわれてたのに……」
見ると、川の浅瀬に緑色のサッカーボールがぷかぷか浮かんでいた。
少し手を伸ばせば取れそうな距離――だが、子どもにとっては“踏み出してはいけない境界線”だったのだろう。
奏は一度だけ空を仰ぎ、そして苦笑いを浮かべながら靴を脱いだ。
「じゃあ、俺が取ってあげるよ。ちょっと待ってて」
顔を上げた男の子の濡れた目が輝いた。
ずぶ濡れになったその帰り道、遠くのバス停に立つ女性とすれ違った。
気づいてはいないが、彼女の視線が一瞬こちらを捉えていた。
彼女――安曇遥は、わずかに歩みを止めて、だが話しかけることなくその場をやり過ごす。
奏もまた、何気なく視線を返したが、心に引っかかるものはなかった。
けれど、その出会いは、確かに何かを揺らした。
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