釣り好きたち~オリンピックに釣りがあったら……

市原たすき

第1話 プロローグ

 10月下旬のある夜、私は小走りにバス停に向かっていた。

 今日は仕事で県庁近くのホテルに来た帰りに、久しぶりに会う友人と3時間ほど酒を飲んだ。

 3人で代わるがわる愚痴を言い、最後は「何か良いことないかな」で終わった。

 空には大きな満月が浮かんでいる。

 今日は大潮だ。月夜の海の中では魚たちも活発に泳ぎ回っているだろう。

 そんなことを思いながら前を見ると、バスは既に停車し、客を乗車させていた。

 バスに最後の客が乗り込むのが見えた。

 点滅するウインカーが左から右に変わった。

「ダメだ……」

 完全に諦めた。酔いのせいか思ったように足が動かない。

 明日は土曜日だが、町内の清掃があるから釣りには行けない。急いで帰って早く寝る理由も無い。

 まだ排気臭が残るバス停までたどり着き、時刻表を確認すると次のバスまで50分もあった。


 私の名前は、佐竹淳一さたけじゅんいち

 今年の9月で62歳になった。

 今は建設会社で働いているが、過去には県庁の上級職として県土整備部けんどせいびぶに勤務していた経験もある。

 25歳のときに高校教員をしていた妻と結婚し、娘が生まれた。

 人並の家庭と幸せな生活を手に入れたが、44歳のときに訳あって離婚し、以来、独りで生きてきた。

 妻と別れたのも、県庁を退職したのも、元はといえば釣りが原因だった。

 あれは私がちょうど30歳、県央の土木事務所に勤めているときだった。

 ある会議の後の懇親会で地元の建設会社の社長と知り合った。

 そこで釣りの話が出て、その週末に誘われた。

 業者同士の親睦を兼ねた釣り大会ということだったので、付き合いのつもりで気軽に参加した。

 魚港から釣り船に乗り、ヒラメを狙って沖へ出た。

 船釣りは初めてだったが、世話好きの船長に教わりながら久々に竿を握った。

 他の人達が大きなヒラメを次々と釣り上げる中、私には当たりすら無かった。

「甘くないな」と思いながら最後の仕掛けを沈めたとき、手に生き物の感触が伝わって来た。

 船長から教わったとおり30秒ほど待って竿を振り上げたところ、ズッシリとした重みを感じた。

 結果、納竿のうかん直前に90センチを越える大ヒラメを釣り上げ、私は優勝してしまった。

 その後の宴会の席上で会員たちに紹介され、賞品として高価な竿を渡された。

 一旦は辞退したものの「納めた会費で用意したものだから」と、強引に受け取らされた。

 帰って妻に話すと、「魚も美味しいし、良い趣味じゃない」と言ってくれた。

 この頃、娘も中学生になり、あまり相手をしてくれなくなっていたので、私もその釣り会の一員となり、月1回ペースで海に出るようになった。

 ところが、半年ほど経った日、所長から呼ばれて県庁の総務課に匿名の投書が届いたと言われた。

 写しを見せてもらうと、私が地元の業者と癒着ゆちゃくして金品を受け取っているという内容だった。

 翌日、県庁総務課へ出頭し、「賞品はプライベートで大会に参加してもらったもので、会費もきちんと納めた」と釈明したところ、犯罪行為には抵触しないことは認めてもらえたが、この件は既に新聞社にも通報されていたらしく、「とりあえず」と前置きした上で、内部規律違反として戒告処分を言い渡された。

 家に帰って妻に話すと、「入札で仕事を取れなかった業者が腹いせでやったのよ。でも、社長さんにも迷惑がかかるといけないから、当分釣りはやめて、大人しくしてた方が良いわよ」と言われたが、業者と良好な連携を保っておくことも仕事のうちと信じていた私は、どうしても納得できず、人事委員会に不服申し立ての手続きをした。

 結果、処分は適法とみなされ、私の申し立ては却下された。

 そして、次の人事異動で県南の土木事務所に転属となった。

 そこは、住んでいるアパートから通うことができず、妻に相談すると、「せっかく軽い処分で許してもらえたのに、何で不服申し立てなんかしたのよ。私たちのことも考えてよ。そんな田舎へは行けないから」と怒り、翌日、娘を連れて実家へ帰ってしまった。

 県南の土木事務所では、1人でアパートを借りて住み、黙々と働いたが、本庁へ戻ることはできず、5年後には隣町の土木事務所に異動させられた。

 妻とは、必要に応じて連絡を取り合ったが、顔を合わせることは無く、娘が18歳になった春に弁護士事務所経由で離婚届が送られて来て、悩んだ挙句に合意した。

 守るべきものを失くした私は、冷遇され続ける職場にこれ以上しがみついている意味を感じられなくなり、22年間勤めた県庁を辞職した。

「教員の収入があるから何もいらない」という妻に、「娘のために使ってくれ」と言って退職金のすべてを送った。

 あのときは、もうこれ以上生きていくが考えられなかった。

 公務員だったため失業保険も無く、途方に暮れていたところ、県南の土木事務所時代に付き合いのあった建設会社の社長と連絡が付き、昔のよしみで雇ってもらえることになった。

 以来、県南の港街でアパートに住み、建設会社の営業担当として働いて生きてきた。

 そういう訳で、釣りは県庁で懲戒処分を受けて以来、まったくやらなかった。

 それまで揃えた道具もほとんど処分し、ユーチューブやテレビの釣り番組すら観なかった。

 ところが50歳の頃、ひょんなことから釣りを再開する日がやって来た。

 ある日、仕事の途中で砂浜の駐車場に車を止めて休んでいたところ、1人の老釣り師が歩いて来た。

 立ち止ってしばらく海を見つめた後、細い竿を振り、オモチャのようなルアーを飛ばすのを見た。

「そんな物で魚が釣れる訳がないだろう」と思って見ていると、5、6投目で竿を湾曲させ、6、70センチもありそうなヒラメを引きずり上げた。

 私は、思わず車を降りて老釣り師のところへ駆け寄り、それがサーフ・ルアー・フィッシングであることを知った。

 以来、私は休日になると、1人で砂浜や磯、河口堤防などに出かけ、潮に合わせて釣り歩くようになった。

 この釣りなら、自分の好きな時間に、好きな場所で釣りができるし、名前や素性を明かすこと無くいろいろな釣り人と知り合うこともできた。

 こうして釣りは、すべてを無くした私に、再び歓びを味合わせてくれるかけがえのないものになっていった。

 中国に「人生を幸せにしたければ釣りを覚えなさい」という意味の格言がある。   

 人並なものを何一つ持たない私だったが、釣りが好きということにかけては誰にも負けない自信があった。


 バス停の周辺を見回すと、裏通りのビルの前にぼんやりとした灯りが見えた。

 近くまで行くと女性の占い師が、小さな机を置いて座っていた。

 机の上の立て札には「1回千円」と書いてあった。

 バス停の方へ戻ろうとしたが、道路の段差につまづいて転びそうになった。

 それに気付いたのか占い師が顔を上げた。髪が長く、一見きれいな女性だった。

「大丈夫ですか?」

 優しい声だ。

 少しの好奇心とスケベ心が働き、まあ千円くらいならと、机の前に置かれた小さな丸椅子に腰を下ろした。

「お客さんですか?」

「ああ、バスに乗り遅れちゃって。ここ占いでしょ?」

「ええ、まあ」

「手相かな? 左、右?」

「ああ、えっと、じゃあ左を」

 彼女はか細い声で言う。グイグイと来ないところに好感が持てた。

 私が左手を出すと、両手で包み込むように握った。

 手の感じからすると案外年齢が行っていそうだ。

 息がかかるほど掌に顔を近づけて手相を見ていたが、10秒ほどすると顔を上げ、

「温かい手で、生命線もしっかりしているし、家庭も円満そうですね」

 良く顔を見ると、もう少し行っている。50は超えている感じだ。

「はい。まあ……」

 当たり障りの無いことだけしか言わない、いかさま占い師かもしれない。

 おまけに50オーバー。いや、首の皺の感じからすると60近いかもしれない。

 ならば、少しからかってやるかと思い、

「私の仕事って、何か分かります?」

 と質問した。

 占い師はしばらく私の顔を見て、

「はい。えーと、具体的には分からないのですが、水? いや、海とかに関することですか?」

「えっ?」

 思わず声を上げた。再就職先の建設会社ではなく、釣りの方を当ててきた。

「漁師さんとかじゃないですよね」

「似たようなものです。釣りをやってます」

「ああ、そう、そうですね。釣りをやられるんですね」

 それから、占い師は考え込むような仕草をした。

「でも……」

「でも、何です?」

「ええ、将来、何かとっても良いことがあるかも……」

「えっ、いつ頃?」

「うーん、3、4年先かな」

「えっ。それはどういうことですか。大きな魚を釣るとかですか?」

「うーん、偉業っていうか、とにかく大きなことを成し遂げるとか……」

 とつとつとした喋り方が妙に気になった。

「すみません、もう少し詳しく分かりませんか?」

 占い師はスマホをいじり始め、しばらくすると手を止め画面を見ていた。

「あっ、オリンピックがある。4年後、オリンピックがありますよ。お客さん、何かスポーツは?」

「オリンピック? この夏に終わったばかりだから、4年後だね。いやいや、そのころ俺は65、6ですよ。スポーツもやってないし、オリンピックって……」

「……ですよね、おかしいな。じゃあ、何か他のことかもしれませんね」

 占い師は、机の端に置かれた古い懐中時計を見た。

「まだ、始めて間が無いの?」

「はあ、ええ、すみません。でも、とっても、とっても良いことがありますから……」

 私は、少し気分が軽くなった。

「そうですか。ありがとう」

「はい」

 女性占い師は笑いながら返事をした。

 もう少し聞きたい気もしたが、料金も気になるし、これ以上具体的なことは聞けそうにない。

「分かりました。いずれにしても、あとは老いぼれて行くだけかと思ってたけど、あなたのおかげで楽しみができました。どうも、ありがとう」

 私が財布を出すと、

「きっと、ありますよ、きっと。それじゃ、千円いただきます」

 私は千円札を3枚渡した。

「あっ、多いです」

「いや、お礼です。気分が良くなったから」

 私は席を立ち、愉快な気持ちでバス停に戻って行った。

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