第36話. 裸の王様

 一夜が明け、朝の冷たく澄んだ光が部屋に満ちていた。


 シエラが、隣でまどろむディレルの頬を指先でそっとなぞる。すると、ディレルは温もりを惜しむ子供のように、掛け布団にしがみつきながらゆっくりと上体を起こした。


 シエラが窓を開け放つと、小鳥たちのかわいらしいさえずりが流れ込んでくる。


「チュチュン、チュン」


 その何気ない日常の音さえ、今のディレルには世界からの祝福のように聞こえた。ディレルは吸い寄せられるように、裸のままシエラの背中へと抱きついた。


 キズがありながらも華奢な肩に顔を埋め、その体温と匂いを肺の奥まで吸い込む。


「おはようございます、ディレル様」


 シエラは腰に回された手に自分の手を重ねた。


「お水を。……身なりを整えましょう。もうすぐ朝食の時間ですよ」


 差し出された銀の杯。ディレルは彼女の背中に張り付いたまま、口移しのような距離感で水を飲み干した。乾いた喉に、冷たい水が染み渡る。


「シエラ、もう痛みは引いた?」


 ディレルは罪悪感と愛おしさを込めて、シエラの腹部をそっと撫でる。


「痛みなど……忘れてしまいました。ディレル様の愛に触れた瞬間、私の中のすべてが喜びに塗り替えられましたから」


 嘘偽りのないその言葉に、ディレルは安堵の息を吐く。


 シエラは優しく、しかし促すように昨日脱ぎ捨てられた衣服をディレルに手渡した。


「さあ、服をお召しください。朝食へ行かなくては」


 シエラの手によって襟を正され、乱れた髪を整えてもらう。その一挙手一投足が、ディレルに王としての仮面を被せていく。


「国王としての威厳を、ぜひ私に見せてください」


 その言葉に、ディレルは背筋を伸ばしてドアの取手に手をかけた。


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 その日のディレルにとって、世界はまるで別物に生まれ変わっていた。廊下を歩けば、すれ違う従者や衛兵たちが一様に頭を下げる。


 これまでは、その視線に頼りない王だという嘲笑が含まれているように感じていた。だが、今日は違う。


「みんな、私を見ている。……私が男になったことに気づいているんだ。私は変わったんだ」


 シエラという絶対的な味方を得て、男としての自信を手に入れた今、ディレルの目にはすべての視線が敬意と称賛に見えていた。実際には、急に態度が大きくなった王への戸惑いや、軍事顧問との噂に対する好奇の目であったとしても、今の彼には届かない。


 全能感に酔いしれたディレルは、その足で宮殿の深部にある宝物保管庫へと向かった。


 管理人に鍵を開けさせ、中へ入る。王の権限を行使することに微塵の躊躇いもなかった。少し前までは、父や姉たちの許可がなければ入ることさえ許されなかった場所だ。しかし現在は、目的のためならば、使えるものは使えるだけ使う。


 彼はある一つの箱を手に取り、満足げに微笑んだ。


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 しかし、その万能感は夜の訪れと共に揺らぐこととなる。


 人目を避けてディレルの私室を訪れたシエラは、いつもの凛とした表情を曇らせ、どこか沈んでいた。


「……シエラ? どうかしたのか?」


 ディレルが駆け寄ると、彼女はためらいがちに、しかし決意を秘めた瞳で見つめ返してきた。


「陛下にこのようなことを申し上げるべきか迷いましたが……。どうしても、お伝えせねばならないことがございます」


 改まった口調に、ディレルの胸に不安が渦巻く。昼間の高揚感が急速に冷えていく。


「な、何? 早く言ってよ」


「……私のことで、よからぬ噂が流れております」


 シエラは視線を伏せ、静かに告げた。


「私が富や権力を狙って、ディレル様に取り入っている、と。……あまつさえ、身体を使って王をたぶらかす魔女であると」


「なっ……!」


 ディレルの顔が瞬時に朱に染まる。


「許せない! 誰だ、そんなふざけたことを言う奴は! シエラにそんな汚い野心なんてあるはずがない! ただ私を好いてくれているだけなのに」


「私は大丈夫です。何を言われても、私の心はディレル様のものですから」


 シエラは悲しげに微笑み、ディレルの手に触れた。その手は冷たかった。


「しかし……私の存在が、ディレル様の王としての名誉に傷をつけてしまうのであれば、話は別です。私のわがままで貴方様を汚すわけにはまいりません」


 シエラは手を引こうとする。ディレルの目には、シエラの手が遥か遠くに消えていくように霞んでいくように見えてしまう。


「……これ以上ご迷惑をおかけする前に、私はディレル様から距離を置くべきかと」


「え? 距離を置くなんて……嫌だよ、そんなの!」


 ディレルは反射的に彼女の手を掴み、強く引き寄せた。昼間の全能感は消え失せ、捨てられる子供のような必死さが顔を出す。


「シエラは僕のこと、好いてくれてるんじゃないの? 昨日の夜のこと、嘘だったの?」


「いいえ! 愛しております。できることならば、ディレル様とずっと一緒にいたい。……ですが、今のままでは、私はただの王を惑わす女です。誰も私たちの愛を認めてはくれないでしょう」


 シエラの涙が、ディレルの理性を焼き切った。


 周囲の雑音が、二人の清らかな世界を汚そうとしている。姉たちだけでなく、国中が敵だ。言葉だけでは足りない。彼女を繋ぎ止めるには、もっと確かな、証明が必要だ。


「……待ってくれ。君の心が変わらないなら、渡したい物があるんだ」


 ディレルは震える手で、机の引き出しから豪奢な布に包まれた細長い箱を取り出した。昼間、宝物保管庫から持ち出したものだ。


「これを受け取ってほしい」


 布を解いて箱を開くと、月光を浴びて鈍く輝く一振りの剣とその鞘が現れた。刀身の透き通るような銀色は薄紫色を帯びているようにすら見える。


「これは……?」


「王家の宝物庫にただ眠っていただけの魔剣イルノレアだ。空間を無視して、振るった切っ先の軌道を任意の場所へ転写できる。とてもピーキーなもので、レティア様の時代の剣豪に与えられ、王家に返納されてから誰にも使われなかった。しかし、君なら誰より上手に使いこなせると信じている」


 ディレルは剣を彼女の手に握らせ、その上から自分の手を重ねて縋るように言った。


「野心によるものだなんて言わせない。僕が、僕の意志で、この国の至宝を君に捧げるんだ。……これが僕の信頼の証だ。だから、行かないでくれ」


 シエラは剣を見つめ、驚いたように目を見開いた。剣は全てが一体構造で、滑らかな曲線を描いている。そして、恭しくその美しい剣を抱きしめる。


「……陛下。このような過分なものを……。この剣に誓って、貴方様をお守りします」


 シエラは剣を胸に抱き、少し悲しげに、しかし真剣な眼差しでディレルを見つめ返した。


「ですが……ディレル様。この素晴らしい剣と私の力だけでは、貴方様の名誉を守り、2人だけの世界を作るには……まだ足りないのです」


「足りない……?」


「はい。口さがない者たちを黙らせるには、誰もぐうの音も出ないような圧倒的な功績が必要です。……例えば、ファレーン王国を完全に沈黙させるような」


 ディレルの頭に、昼間に抱いた全能感が蘇る。


 そうだ、僕たちは勝たなければならない。


「僕とシエラで、圧倒的な功績を……。ファレーン王国を打ち倒さなくてはいけない。でも、それならフォアボーテシアに頼むしかないのかな……。しかし、たった3人で攻めるなんて……。シア様にお願いするしかないのか……」


「えぇ。ですが、シア様は守りの神。敵国へ攻め込むような汚れ仕事をさせるのは、シア様の美学に反しますし……何より、シア様を悲しませてしまいます」


「そうか……。でもそれじゃ……」


「攻めるのならば、それにふさわしい力がございます。……イルノレアをも凌ぐ、封印されし真の兵器をご存知ですか?」


「真の……兵器?」


「はい。破壊の化身、悪神フィオです」


 シエラはディレルの隣に座り、肩を寄せた。


「シア様が守護者ならば、フィオは断罪の剣。……役割分担こそが、王の采配ではありませんか?」


「悪神フィオ……。でも、あれは封印されていると……」


「はい。ジリアス様はその強大すぎる力を恐れて封印しました。フィオが悪神と呼ばれるのは、その力が強大すぎて人には制御できず、ただ破壊をもたらしたからです。制御なき力は災害ですが、王の意思によって制御された力は正義の鉄槌となり得ます」


 シエラは隣のディレルを見上げ、目を細めた。


「フィオを封印しているのはシア様ですが……シア様へのお願いができるのは、この国の王である貴方様だけなのです。フィオはシア様の息子であり、その行動の本質はシア様への愛であることは確認できています。シア様が国を守れと命じ、ディレル様がファレーンを討てと導けば、フィオはリクシアのために喜んで力を振るうはずです」


 王だけの特権。歴代の王を超越する偉業。そして、愛する女を繋ぎ止めるための力。全てのピースが、ディレルの頭の中でカチリと音を立てて嵌まった。


「……そうか。僕が、お願いすればいいんだ。ただお願いするだけで……」


「はい。でも、絶対に他の人には漏らしてはいけませんよ。守ることだけを考える者には理解などできません。2人だけの秘密です」


 シエラは人差し指を立てて唇に寄せる。ディレルはそれに満面の笑みを返す。


「大丈夫。成果を見せれば誰もが納得する」


 ディレルはシエラを強く抱きしめた。シエラはディレルの抱擁を受け入れ、抱擁を返した。


「これで一緒になれるよ。フィオを使って2人でファレーンを討ち滅ぼせば、文句なんて言われなくなる。誰もが認めてくれる。幸せになれるよ」

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