触れた未来が消えないように。

真崎 奈南

一章、カラスが鳴いている

第1話 残ったのは虚しさ

 心が曇っている。ずっと曇っている。

 晴れやかな気持ちなんて忘れてしまったくらいに、心は灰色の雲で覆い尽くされている。


 + + +


 高校生活も終わり、私、柿沼かきぬま優里ゆうりは四月から大学生になる。

 春休みになり、受験勉強から解放された今、母親の顔色を伺いながら二人っきりで家にいるのが息苦しくて、私はそそくさと家を出た。


 少しずつ春めいては来ているけれど、空気は肌寒い。

 もう少し厚手の上着を着てくれば良かったと思いながら、私は羽織っているパーカーのファスナーをしっかりと締めた。


 午前九時。この時間に、ただ目的もなく歩くのは初めてである。

 目的はないけれど、足は駅の方へと向かっている。

 駅前の通りに出れば、本屋やファストフード店など、時間を潰せそうな場所をいくつか思い浮かべられるからだ。


 通学時にも使っていた歩道橋の階段をのぼっていくと、上から賑やかな声が聞こえてきた。

 目を向けると、見知った顔が二つ見えた。鼓動が重々しく鳴り響き、私は無意識に息を殺す。


 そこにいたのは元同級生であり、クラスメイトでもあった。

 私と同じく、八田之守やたのもり高校を卒業生したばかりの女の子二人組である。

 細長い橋の中央部に立っている二人を見た瞬間、高校の廊下に立っているような錯覚に陥った。

 目立つ存在だったふたりが、空気のような存在だった私を見下すように笑っていた姿は、真っ黒な棘となって心の中に残っている。


 幸いにも、彼女たちは私に気付かぬまま歩き出し、幸いにも反対側の階段を降りていった。


 安堵しつつも足が動かず、その場に立ち尽くしていると、真後ろで鳥の羽音が大きく響いた。

 驚きで鼓動を高鳴らせながら慌てて振り返ったけれど、私の背後に鳥の姿はなかった。


 しかし、羽音はやけに近くから聞こえてきた。

 どこかにいるはずだと考え、階段や階段下、そして橋の手すりから身を乗り出し、下を走っている道路まで視線を彷徨わせてみるが、音の主は見当たらない。


 腑に落ちない気持ちを小さなため息に変えた時、遠くでカラスが鳴いた。

 自然と目を向けてしまうのは、ここから東の方向にある烏山からすやまで、私の通っていた高校の裏手に位置する小さな山だ。


 そこにはカラスのねぐらにもなっている神社もあるため、この町の住人からはちょっぴり薄気味悪い山という印象を持たれている。

 けど、私は違う。逆の印象を持っている。

 高校の帰り、頻繁にその烏山神社へと足を伸ばしては、受験の合格祈願を祈った。


 高校一年のころからだから、もう数えきれないほどに通っているのに、ねぐらと言われる割には、それほどカラスの姿を見かけていない。

 そのせいもあるかもしれないけど、私にとってそこは心が落ち着くお気に入りの場所なのである。


 またカラスが鳴いた。

 甲高い声を耳にすれば、目的地が、行くべき場所が、定まった気がした。

 私は烏山に向かって、ゆっくりと歩き出した。


 + + +


 八田之守高校の前を過ぎ、三つ目の角を曲がる。

 そして民家に挟まれた小道を百メートルほど進むと林があり、そこが烏森への入口である。


 足で踏みならされできた道を進んでいくと、ひっそりと佇む白い鳥居が目の前に現れる。

 烏の鳴き声を聞きながらその鳥居をくぐり抜け、木々の間を進む。

 徐々に道の傾斜がきつくなっていくけれど、これぐらいで音を上げてなどいられない。


 五分ほど歩き続けると、今度は道の先に百段は軽く超えるくらいの長い階段が現れる。

 学校帰りに寄るときは大抵時間がないので急ぎ足でのぼっていたけれど、今日は違う。この後の予定などない。

 たっぷりとある時間を有意義に使うように、私はゆっくりと階段をのぼり始めた。


 石造りの階段に入った小さなヒビは、何かの模様にも見える。

 両脇にある茂みへと目を凝らすと、今日は烏山と言われるのも納得するくらいに、至る所でカラスの姿を見つけることが出来た。


 この場所には見ていたようで見えていなかったものが、たくさんある。

 今更ながらそんな気持ちになり、私はのんびりと歩を進めながら、この山をもっと知るべく視界に映る一つ一つに気持ちを傾けた。


「……はぁ。疲れた」


 最後の一段をのぼり終えると、自然と声が出た。

 いつもより疲れてはいないものの、足は疲労感で重くなっている。


 深呼吸し、気持ちを切り替えるように表情を改めた。

 目の前には下で見たものと同じ白い鳥居が、そしてその先へと目を向ければ、小さな社殿が……烏の神様が静寂の中に鎮座している。


 鳥居をくぐった瞬間、空気が冷たさを増し、僅かに身体が震えた。

 パーカーのポケットから小銭入れを取り出しながら賽銭箱の前に立つ。放り込んだ小銭がカランと音を立てた。


“有難うございます。おかげで、志望する大学に無事合格することができました”


 瞳を閉じ手を合わせ、心の中で最初に話しかける言葉はこれしかない。

 合格を手にしてから、この場所に来るのは初めてなのだ。


 正直に言って、自分はそれほど信心深い方ではないと思う。

 けれど、気が付けばここに通っていた。

 今振り返れば、私は心のどこかで、目に見えない不確かな存在にすがりついていたのだと思う。


 また、カラスが鳴いた。


 なぜ今まで気にならなかったのか不思議になるほど、今日はやけにカラスの鳴き声が耳につく。


 閉じていた瞼を持ち上げ、周りを見回した。

 今さっき鳴いたのがどのカラスかは分からないけれど、社の周りにぽつりぽつりとその黒い姿を見つけることが出来た。

 そのうちの一羽が羽音を立て、社殿の西側に設置されている石で作られた塀の上に飛び乗り、そして一鳴きした後、大空へと舞い上がっていった。


 私は静かに歩き出す。

 塀は胸の高さまであり、背伸びをしてその向こうを覗きこめば、なだらかな山の斜面が広がっていた。


「……わぁ」


 また一つ、新しい発見をしてしまった。

 眼下には八田之守町やたのもりまち。少し視線を伸ばせば、私の住む大河町おおかわちょうも見えた。


 ぼんやり景色を眺めていると、八田之守高校からチャイムが鳴り響いてきた。

 家を出た時刻から察して、一時限目が終わったところだろう。

 三年生は卒業を迎えてしまったけれど、在校生の三学期はまだ残っている。風に乗って、生徒の活気ある声が聞こえてきたような気がした。


 弾む声。笑顔。ぶつけあう言葉。悲しみ。憂鬱。


 あの学校の中に、たくさんの“今”が詰まっている。


 その全てが掛け替えのない大切な想い出へと――……。


 じいっと、八田ノ守高校を見つめていると、だんだんと虚しくなってきてしまった。


 私には何が残っただろうか。


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