『シキの家』 禍福の令嬢が平凡と交わり人生を取り戻すまで

眠子ゆみ

1-1金欠カバタとモネの娘

1-1(1) 金欠サラリーマンとモネの娘

  君は、お金に恐怖を感じたことはあるか?

 では、神に気に入られ恐怖を感じたことは?


 事が動いたのは夏の正午。僕が住む町の郊外にあるカフェの庭にて。

焼くような日差しから免れた睡蓮池の真ん中にある東屋。彩度を失い、ほの暗い景色。夏の虫の音はどこかへ消え失せ、辺りは静寂に包まれた空間。そこで僕は朦朧もうろうとした意識の中、うら若い女性と2人きり……。淡い青紫の彼女の瞳は、海の底から空を見上げたような輝きを湛えている。さらに、目尻に小さなしゅ隈取くまどりという風変わりな容貌だ。

「その札は麻酔代わりだ。楽にしてやるから安心しな」

 粗野な言葉遣いの彼女は切れ長の目を一層鋭くさせ、脇に差していた刀身のない刀を抜く——


「五百澤いおざわ、そなたの力を少し借りる。」


 僕の名ではない。何かの名を読んだ瞬間、水鏡をそのまま刀に模したような刀身が現れた。陽炎のような光をゆらゆらと揺蕩たゆたわせている。いっそ刀かどうか怪しいが、日本では普通に銃刀法違反だ。


「場合によっちゃあ……喰ってもいい」


 尋常じゃない。こりゃあ死ぬな。神に魅入られた僕が解放されるには、これしか方法がないのなら甘んじて受け入れよう。憐みと慈愛をないまぜにしたような……悟りの目が向けられている。彼女は短いため息をつき、ついに刀を振り上げた。あぁ、これでやっと僕の徒労は終わるのだ——

 これが、“あちら側”との始まりだった。自分から踏み込むなんて、思ってもいなかったけど――いや、本当は、ずっと探していたのかもしれない。この深淵を。


 待ち合わせのカフェは「百音モネ」という。辺鄙へんぴな場所だが、広い駐車場があり、車好きの僕にはありがたい。車を降り、門をくぐると、耳が寒さでひりついた。池にはぽつぽつと水生植物。空は重く曇り、空気は冷たい。

「寒っ……」

 肩をすくめて店へ急ぐ。美しく整った白い玉砂利と飛び石。まるで「踏み入るな」と庭への侵入を阻んでいるようだ。異国の香りをまとうモダンな町家風の建物。おしゃれな店に場違いな自分を感じ、ドアに手をかけるのを躊躇する。

 いやいや、今日は訳あって“神仕いかみつか”に会いに来たのだと鼓舞こぶして、ドアを開けた。涼しげな金属音とコーヒー豆の芳醇な香りが出迎える。だが、ドアチャイムはない。どこか遠くで鳴ったような音――店内には季節外れの風鈴がいくつも吊るされていた。

 風鈴?

 さっきの音はどのやつだ? 空調機器や窓の風も届きそうにないが…変な店だなぁ。


 昼下がり、他の客は見当たらない。彼女を除いては。

「神仕いの蓮見はすみだ。どうぞ、こちらへ」

 淡い青紫の瞳を持つ若い女性。その目は海の底から空を見上げたような輝き。背後の有名な画家の睡蓮の絵から抜け出したような雰囲気だった。

「さて、今回は判定屋はんていやからの紹介だね」

 ちょっと言葉遣いは雑だけど、僕は「よろしくお願いします」と会釈し、案内されたソファに腰を下ろす。


 ——ここに来るきっかけは、数日前のこと。僕は床に座り、通帳を睨んでいた。

「にらめっこしましょ、笑っちゃだめよ、あっぷっぷ!!!」

 現実を受け止めきれない自分をあやすように口ずさみ、頬を膨らませて残高を覗き込む。…が、すぐしぼんだ。

「……笑えない」

 貯金は半年で激減。胸が鉛のように重くなる。眠れない夜、僕は友人“肉まん”に電話をかけた。

「なんだよぅ、こんな時間に?」

 彼は高校時代からの友人。最近の経済難の話をすると、案の定、次々とバカみたいなエピソードが口をついて出る。新人が賠償金を残して逃げた件。 留学費用を貸したら飛ばれた件。

「待って、待ってよぅ!もう俺、お腹いっぱいだようぅ!」

 笑い話にするには酷い話だ。でも、話せたことで少しだけ気が楽になった。

「……お前さ、何か、ついてないよねぇ?」

「うん、マジでツイてない。」


「…いや、そうじゃなくてさぁ、」


 オカルト好きの肉まんが紹介してきたのが、判定屋はんていや。 年頃の女性の間で流行っているやつだ。なんだったか。

「俺のやつは占いまがいのヤブじゃねぇぞ。妖や霊の仕業か見てくれるんだ!」

「えぇ……」と呆れつつも、その実嬉しかった。強引にでも気にかけてくれる存在がいるということが。

 働けど働けど暮らしは楽にならず。 SNSを開けば、パートナーや子供たちと仲睦まじくしている様子から、なにかで首位をとっただの、早期退職して自由な暮らしがどうこうという投稿ばかり目につく。

 僕には――何もない。

 勉強もスポーツも普通。容姿も普通。だから人生もずっと普通。日々の生活のために、仕事をして疲れて帰って寝る。たまの休みは少しの趣味に興じるか、友人と飲んだり溜まった家事をして終わる。気づけば給料日が来ていて…その繰り返し。


 何も変わらないまま、最期を迎えるのかもしれない。

 このまま、ただ年を重ねていくだけかもしれない。

 でも、確かに感じた。

 一石を投じる何かが、来た。

 店のURLを送られ、気づけばわくわくしながらアクセスしていた。

そうして僕は、神仕かみつかいに会いにきた。

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