エピソード4「深水市中央区中瀬」①

=①=


深水市中央区中瀬。レトロな商店街、カルチャー系の施設、個人店と雑踏が混在するこの街は、観光とサブカルチャーが交錯する独特の情緒を持っている。そんな中瀬で、ちょうど二年前、奇怪な事件が発生し、それはその後一年間にわたり立て続けに起こることになった。


深水市中瀬連続失踪事件。


わずか一年という短い期間に、老若男女を問わず十人の人々が次々と姿を消した。犯人への手がかりは一向につかめないまま、事件は深水市中央区のなかでも特に中瀬地区を中心に頻発。やがて中瀬は、“人が消える街”と呼ばれるようになり、都市伝説としての噂が、口コミとネットを通じて急速に拡散していった。


そして昨年十月末。それまでの連続失踪が、嘘のようにピタリと止んだ。


犯人が捕まったという情報は存在しない。そもそもこの事件、声明や犯行予告の類も一切なかった。ただ、それは突然始まりある日を境に、まるで電源を落とすように、ぷつりと途絶えたのだ。そこに何の前触れもなく、まるで“事件の存在そのもの”が、街から切り離されたかのように。


◇◆◇


十月二十八日午前八時十五分。喫茶・風待庵。中瀬商店街で長年にわたり静かにその歴史を支えてきた老舗の喫茶店。店内には大小さまざまな観葉植物が並び、耳に心地よいクラシックのBGMが、ゆるやかに流れている。店内は、濃く香るコーヒーの匂いで満ちている。それはこの店が自家焙煎の豆を使っていることを、何より雄弁に語っていた。

風待庵の空間には、“静かな癒し”が漂っている。それは、店主が丁寧に淹れる一杯のコーヒーと、この街と共に重ねてきた時間の重みが織りなす、中瀬という街の長い歴史と記憶を抱いているかのようだった。


朝もまだ早い時間。 風待庵の店内で、ひとりの男がテーブル席に腰を下ろし、雑誌をめくりながら静かにコーヒーを味わっていた。マグカップに注がれているのは、深煎りのインドモンスーン。それをじっくりと淹れた苦味の強い一杯。足を運ぶ店が変わっても、彼の好みは相変わらずだった。


テーブル席に座る男の名前は、沢登修吾。無造作な白髪混じりの髪に、しわの寄ったワイシャツに黒のジャケットと黒のスラックス。白髪の混じる無精髭に、どこか感情の読みにくい表情。その姿から伝わるのは、年齢相応の疲れと、どこか投げやりな雰囲気だった。

だが彼は、かつて五宇都県警・深水市署の捜査課に所属する敏腕と言われていた刑事。一年前、世の中を騒がせた深水市中瀬連続失踪事件の捜査を担当していた男である。


その事件の動きが突如として止まったのは、昨年十月末。その二か月後、十二月末をもって沢登は長年勤めてきた県警を退職した。そして翌年四月、彼は新たな仕事を始めていた。同期の鑑識官・笠原美恵、後輩刑事の武澤春樹。彼をよく知る同僚や上司たちは、思い直せとばかりに口々と彼の退職を止めようとしていた。だが、それでも沢登の決意は揺るぐことはなかった。


沢登は、退職の理由を誰にも語っていない。同僚にも、上司にも、後輩にも一切口にしていなかった。だが、誰もがその理由を察していた。深水市中瀬連続失踪事件。あの奇怪な事件に、彼の退職は深く関わっているのだろうと。


事件は、昨年十月末を境に突如として動きを止めた。だが、犯人への手がかりは何ひとつ掴めないまま捜査は行き止まりにぶつかり、このまま誰も答えにたどり着くことも出来ず幕を閉じるだろう未来へのレールが敷かれつつあった。

そんな中での沢登の退職の意思。それを周囲の多くは、彼がその行き止まりに対する自身への憤りと諦めを抱え、警察という現場を離れる決断をしたのだと考えていた。

だが、本当の理由は、誰にもわからない。沢登が。彼自身がそれを語らない限り。


◇◆◇


沢登修吾。かつて五宇都県警・深水市署捜査課に所属し、“敏腕刑事”と呼ばれていた男は今、深水市中央区中瀬に事務所を構え、探偵業を営んでいる。

現在の彼の仕事は、ただ事件を追うことだけではない。見えない危機を可視化し、まだ表面化していない問題、社会の中に潜む“理不尽”の兆しを読み取ること。

それは沢登の「未然に歪みを正す“予防的正義”」を信条とする姿勢でもあった。

そんな彼の在り方から、彼を「理不尽を可視化する者」と呼ぶ者もいる。


彼の一日は、いつも決まって風待庵で飲む一杯のコーヒーから始まる。朝八時、長年にわたり中瀬商店街の歴史を静かに支えてきたこの店の店主が沢登の注文に応えて丁寧に淹れる苦味の強い一杯を味わいながら、新聞と雑誌に目を通す。それが今の彼の日課となっていた。


かつて沢登が通っていた中瀬北、屋久通り沿いの喫茶店Terminal。今、それはもう存在しない。深水市中瀬連続失踪事件が突如として止まった頃、Terminalもまた一年という短い歴史に静かに幕を下ろした。そして、店を営んでいた女店主、馬場カーミラルも深水市から姿を消した。


店を閉めた彼女のその後を知る者は、中瀬の街には誰ひとりいなかった。あまりに唐突な出来事だったこともあり、彼女を親しみを込めて「まーちゃん」と呼んでいた商店街の人々も、常連だった香蘭亭の女将、立花裕美でさえも。


「修吾君が、しっかり捕まえておかないからー!」


そう言って沢登を責めるように笑う立花だったが、その言葉の奥には馬場がこの街からいなくなったことへの寂しさが、確かに滲んでいた。

彼女の言葉に苦笑いを浮かべながらも、沢登は立花からそれを感じ取っていた。そして、彼自身の中にも同じ寂しさがあることを、語ることなく静かに認めていた。


馬場カーミラル。中瀬北二丁目、屋久通りに面した中瀬北バス停前。そこにあった小さな喫茶店「Terminal」の若い女店主である。

二年前の十月。深水市中瀬連続失踪事件の聞き込み捜査中、沢登は偶然この店に立ち寄った。店内に漂う静かな空気と、居心地の良さ。そしてなにより彼は、店主・馬場の所作に惹かれた。


彼女は二十代半ばとは思えないほど落ち着いていて、言葉の選び方も、動作のひとつひとつも、どこか“大人”を思わせるものだった。それが沢登の心に静かに響いたことで、彼は自然とこの店に通うようになっていた。


顔を合わせる機会が、時間が増えるにつれ、二人の間には店主と客という関係の中にも、どこか親密な空気が漂い始めた。その様子を、中瀬商店街で長く店を営む店主や女将たちは、暖かく、静かに見守っていた。


二十歳近く年齢は離れていたが、馬場の落ち着いた振る舞いがその差を感じさせず、むしろ年齢では測れない“静かで不思議な調和のようなもの”が、二人の間にあった。


だが、そんな彼女はもういない。そのことは沢登自身がよく知る所だった。


◇◆◇


風待庵の本棚には、いつものようにあの雑誌が置かれている。沢登は、苦いコーヒーの注がれたカップを傾けながらその一冊を手にし、ページをゆっくりとめくっていた。


手にしているのは「月刊ヌー!?」オカルトと都市伝説を専門に扱う、知る人ぞ知る雑誌だ。沢登が刑事だった頃、彼は捜査にオカルトや超常現象を持ち込むことを“ご法度”と考えていた。いや、警察組織全体がそうだった。科学的根拠のないものを立証することが出来ないからだ。だが、深水市中瀬連続失踪事件の捜査に携わりその中でこの雑誌に出会ってから、そして彼女と出会ってから、沢登の中でその考えは少しずつ変化し、今では彼の愛読書となっている。


今月号の特集は、こう題されていた。


「理不尽を可視化した怪異。深水市中瀬連続失踪事件とは何だったのか」


そこには、深水市で起きた連続失踪事件の総括記事が掲載されていた。その冒頭には、こう記されている。


◇◆◇


「理不尽を可視化した怪異は、どこに消えたのか?」


深水市中瀬連続失踪事件の記憶を辿る。

深水市中瀬で起きた連続失踪事件は、今もなお多くの謎を残している。 事件は一年という短期間に集中し、老若男女を問わず人々が忽然と姿を消した。そして昨年十月末、まるで電源を落とすように、事件は突如として終息した。


犯人像は不明。声明も予告もなく、ただ“消えた”だけ。この異常な終わり方に、ある民俗学者はこう語る。


「筋道の通らない怒り、報われない努力、突然の別れ――それらの思いが形となり、新しい妖怪として生まれる」(民俗学者・三輪博士)


この言葉に照らすならば、事件は“理不尽”そのものが形を持ち、人々の語りの中に潜む矛盾や自己正当化に反応した“怪異”の仕業だったのではないか。そんな仮説が、今も静かに囁かれている。


◇◆◇


沢登は、静かに目を閉じる。あの街、深水市中央区中瀬を中心にで起きた事件から一年が経過し、今やあのときの事はここの住人たちの誰もがその多くを語らない。だが、彼の中では、まだ終わっていなかった。


風待庵の空気は静かで、コーヒーの香りが深く漂っている。その香りの奥に、沢登は“彼女と過ごしたあの一年の面影”を探していた。



②へつづく

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