エピソード1「善人の仮面」④
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八月八日。深水市中央区、中瀬北二丁目屋久通り沿い。中瀬北バス停のすぐ前に構える、小さな喫茶店「Terminal」。店内には五席のカウンターと、四人掛けのテーブル席が一つだけのまさに“こぢんまり”という言葉が似合う店だ。
今日も店内ではいつものように耳に心地よいジャズの旋律がふわりと流れ、 コーヒーの香ばしい香りと音の粒が空気に溶け合う。ひとりの時間を大切に過ごしたい人には理想的な空間を演出する。
Terminalは、「静かに過ごせる場所」としてそこそこの評判を得ていた。 コーヒー片手に思索に耽る人もいれば、誰にも邪魔されず持ち込んだ物語のページを開く者もいる。
ただ、いかんせん席数が少ない。時間帯によっては、扉を開けた瞬間すでに満席の光景が広がっていることもあり、この店の女店主“馬場カーミラル”の「ごめんなさい」と目で語るような苦笑いを浮かべているのを見るて、そのまま引き返すしかない客も少なくない。
しかし、そんな“入れない空間”であることすら、この店の魅力の一部とも言われているようだ。
午前八時三分を告げる時計。まだ朝早めの時間にもかかわらず深水市はすでに真夏の陽射しに包まれていた。街がまだ完全に“仕事モード”になる前の時間だというのに、太陽は一足早く「今日もがんばっていこう!」とやる気を出している。空からの刺すような光は肌に触れれば即座に針のような刺激となり、どこか追い立てるような熱を帯びていた。
中瀬のアーケード街を抜けると、屋久通りに差しかかる。 日陰を選んで歩いたところで、逃れられるのは焼ける直射。纏わりつく湿気からはどうにも逃れられない。夏特有の、ぬめるような湿気を含んだ空気は、道行く人々にじっとりとまとわりつき、“無料配布”の名のもとに押し付けられるこの蒸し暑さは、有難迷惑の極みだ。
空を見上げれば、太陽は実に満足げな表情を浮かべているようで、ひときわニコニコと笑っているようにすら見える。
その歩道を、一人の男が通り抜けようとしていた。 避けられぬ暑さを、どうにかして避ける方法はないものかと、自らの工夫を信じてはみるものの、結果は毎度無駄な抵抗だと彼は知っている。それでもなお、彼はまるで暑さと頭脳戦を繰り広げるかのように屋久通の歩道をやや速足で進んでいた。
沢登修吾。五宇都県警深水市署所属の捜査課刑事で年齢は四十代半ば。無造作な寝癖混じりの髪にしわくちゃなワイシャツとブラウンのスラックス。白髪交じりの無精髭、そして無表情に近い顔つきをしたこの男は、見た目からだらしなさしか伝わってこない。そんな彼なのだが実はその見かけによらず、署内での評価は高い。いわく「一見ぼんやりして見えるが、話し方の節々に見える鋭い観察眼と論理性がそれを隠しきれず滲み出ている男」らしい。そんな彼の向かう先は、この通りにある中瀬北バス停前の喫茶店「Terminal」。その小さな店のカウンター席は、朝早いこの時間帯であれば比較的確保しやすいのだ。
風鈴が喫茶店「Terminal」の軒先で僅かな風に吹かれ細く震えている。チリチリ…と揺れる音にまとわりつくように、生ぬるい空気が屋久通りを這う。アスファルトの照り返しにじわじわと熱された空気は追い打ちをかけるように暑さと粘り気を帯びて通りを満たしていた。あと七歩でその木製の扉に辿り着く。暑さを避ける術などないと知りながら、額に滲む汗を意識し、沢登は少しだけ歩調を早めた。それが無駄な抵抗でも、その扉の向こうにはジャズと涼と長い黒髪の美人店主が待っている。
木製のドアノブに手をかけた瞬間、“カリッツ”と言う音と共に、沢登は靴裏から足に伝わる何かを踏んだ感触に気付いた。何だ?そう思いながら足を退けると、そこには粉々に砕けた“何か”があった。元に戻せば小さなコインほどの大きさのになるだろそれは、燦々と照り付ける太陽の光を僅かに反射して光を帯びている。何か…奇麗な石でも踏んだのだろうか。まあいい。それより今は、店内に入って涼みたい。沢登はそれを少し気にしつつもドアノブをゆっくりと引いた。
カランカランカランカラン…。ドアベルが、小さな音楽のように“お客様の来訪”を告げる。沢登はちらりと店内に目を走らせ、カウンターが空いていることを確認すると、扉の縁からふわりと漏れる冷気に吸い込まれるように、静かに一歩を踏み入れた。
喫茶店「Terminal」の扉をくぐると、まず目に入るのはカウンター奥に静かに佇む店主の姿だ。長い黒髪が肩にかかり、どこか異国の血を感じさせるはっきりとした端正な顔立ち。白いシャツに茶色の薄手のエプロンを纏う彼女の動作は、一つひとつが流れるように静かで美しい。その踊るようなしぐさの端々に、年齢以上の洗練が滲んでいた。
この店の店主“馬場カーミラル”。その苗字からプロレスラー、“ジャイアント馬場”を連想し、彼女は「ばば」さん、と呼ばれがち。だが、彼女のそれは「ばば」ではなく「まば」と読む。二十代半ばの日系ハーフで、日系アメリカ人の父と日本人の母を持つという。
彼女が営む喫茶店「Terminal」は、深水市中央区・中瀬北二丁目、屋久通り沿いに佇んでいる。中瀬北バス停のすぐ前。通りを行き交う人々の目に自然と留まる小さな店だ。開店したのは、今からおよそ一年前。店内には五席のカウンターと、四人掛けのテーブルがひとつだけ。 “こぢんまり”という言葉が、これほどしっくりくる場所はないかもしれない。 そして店名の「Terminal」は、バス停の目の前であるこの立地から取ったものだという。
「おはようございます、沢登さん。」
店の扉が開きドアベルの音がカランカランと鳴ると、ちょうど朝八時を少し過ぎた頃合いにいつものように現れる常連客、沢登の姿がカウンター奥の馬場の目に映る。彼女は、朝から強い日差しを燦々と注ぐ盛夏の太陽にも負けない輝きを纏った笑顔で、静かに沢登を迎え入れた。沢登は、入り口から見て左から二番目の席へ迷いなく歩みを進める。いつも通りの所作だ。沢登は普段の無表情な男だが、この時ばかりはその頬が少しだけ緩んでいた。
「おはよう、馬場さん。いつものを頼むよ。」
「はい、いつものですね。」
その“いつもの”とは、彼のためだけに用意された一杯。馬場が趣味で焙煎した深煎りインドモンスーンのブラック。それを口にすれば眉間にしわが寄るほど苦目に淹れる。それが沢登の好みだった。
そのことを知った頃から彼女は誰にも出さない彼専用の“特別な一杯”を淹れるようになった。もっとも、“特別”とは聞こえが良いが、実のところ「苦すぎて他の客には出せない」と言うのが本音だ。馬場はその一杯を、丁寧に、無言の信頼に応えるように仕上げていた。
「はい、どうぞ。修吾さん。今日も中瀬でお仕事?」
淹れたてのコーヒーを手渡しながら、馬場は穏やかな口調で言葉を投げかける。 沢登はマグを受け取り、一呼吸分の間を置いてから、軽く頷いた。
「ん、ああ。今日も蓮見の件でね。」
この馬場という若い美女が時折口にする“修吾さん”という名前。沢登にとってそれはまだどこか落ち着かず、慣れない響きだ。いや、というより彼には名前で呼ばれることそのものがあまりない。そう呼ばれる日常を持ち合わせていない男なのだ。それは時に、自分の名前が“修吾”であることすら忘れてしまうほどに。
馬場は沢登の間のある返事に何かを察したように、その口元に、そっとやわらかな微笑みを浮かべた。
「それじゃあ、今日もお昼は、いつものを用意しておけばいい?」
馬場がそう尋ねながら、彼を覗き込む。 沢登は眉尻を僅かに下げて申し訳なさそうな苦笑を浮かべた。
「悪いな。今日は香蘭亭に行くつもりなんだ。」
彼の言葉に肩をすくめて小さく笑う馬場。
「そうなんだ、残念。」
彼女の小さな笑みには、冗談めいた甘さがちらりと混ざっていた。沢登は無言で頷いたまま、マグカップに口をつける。口内に広がるいつもの強い苦味。まだどこか浅く眠っていた頭が、コーヒーの渋さに突き上げられるようにカッと覚醒するようだ。
「まだしばらくは中瀬に通うことになりそうだ。次の昼はまた頼むよ。」
そう言いチラリと彼女に視線を送る沢登。
「はい。待ってますね。」
彼女の笑顔はいつも通りなのに、今日はどこか距離が近い。 いつもと少し違う絡み方に、沢登は微かな戸惑いを覚える。 だが、その違和感は極端に空気を乱すほどのものではなく、朝の時間は相変わらず静かに流れていった。
何気ない言葉と、眠気を洗い流す一杯の苦味。 沢登の胸に沁みていくのは、そんな小さな日常の手触りだった。
◇◆◇
沢登を見送った後の喫茶Terminal。時刻は八時三十分を少し過ぎたところ。店内には客の姿はなく、朝の空白が時にふと訪れる、そんな時間帯だった。
このあと九時ごろには、中瀬に暮らすTerminalの常連たちがぽつりぽつりと現れ始め、九時三十分にもなれば、この小さな店はほぼ満席になる。だが今はまだ、誰もいない。その“間”を、馬場は一人、静かに過ごしていた。
カウンターの奥で、自分のために一杯のコーヒーを淹れる。彼女専用の黒いマグカップに注がれたコーヒーの湯気が、ゆるやかに立ちのぼる。
カウンターから出て窓辺に目を向けると、夏の日差しは、まるで夏を彩る歌を熱唱する気分を高揚させた歌手のように強く、眩しく街を照らしていた。
中瀬北バス停には、ハンディファンを片手に並ぶ人影。時計を気にしながら足早に歩くビジネスマン。 額に汗を浮かべ、少し駆け足で通り過ぎる人もいる。
街はすでに“仕事モード”に入っていた。暑い夏の、いつも通りの朝の風景。
馬場は黒いマグカップにそっと口をつけ、その様子を、静かに、まるで中瀬の夏の日常という平凡かつ今しか見られない物語を眺めるように見つめていた。
朝の空気に触れようと、馬場は店の扉をそっと開けた。足を一歩進めたその瞬間、“カリッ”何かがさらに細かく砕けるような乾いた音が、足元から響いた。
ん? 馬場は眉をひそめ、視線を落とす。
そこには、粉々に砕けた“それ”が散らばっていた。元の形を想像すれば、小さなコインほどの大きさ。太陽の光を受けて、わずかに反射し、淡く光を帯びている。
“あらあら……一枚、消し忘れてたようね。まあ、いいでしょう。”
馬場は声に出すことなく呟き、口元にニヤリと笑みを浮かべた。 それは、喫茶店Terminalの穏やかな女店主とは思えない、鋭く冷たい笑み、“闇笑”だった。
そして、彼女は何事もなかったかのように、店内に戻りゆっくりとその扉を閉める。
外は、いつも通りの夏の街。中瀬北バス停に並ぶ人々、汗を拭いながら歩くビジネスマン。 その日常のざわめきの中に、粉々に砕けた“それ”は静かに溶けていった。
“人にはね、誰しも“表”と“裏”があるものさ。善人の顔、悪人の顔。それだけじゃない。 無能に見える有能、有能ぶった無能。人の皮を被った”怪異“も、ね♪。沢登修吾…あなたは、私が片付け忘れていた“それ”に、気づいていたかしら? ふふふ…ニシシシシシシ。”
◇◆◇
八月八日。深水市議会議員懇談会。議会の出席簿には、白川誠一郎の欠席理由として「体調不良」と記されていた。
その“体調不良”という言葉の奥に、この時はまだ誰も知らない空白が静かに横たわっていた。
エピソード1「善人の仮面」終
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