第8話:部長の推理と、理事長の陰謀~柔道場の裏側で~

部室の扉が閉まると、途端に重苦しい空気が五人を包み込んだ。田中事務員の冷たい声が、まだ耳の奥で反響している。部費削減、そして柔道場の貸し出し――それは柔道部にとって、死刑宣告にも等しい知らせだった。ひなたは、肩を震わせ、つばさも顔を青ざめさせている。はなとツムギも、言葉を失っていた。


「…こんなのって、ひどいよ…!」ひなたが、絞り出すような声でつぶやいた。その瞳には、再び悔しさと絶望が滲んでいた。楽しいはずの柔道部が、音を立てて崩れていくような感覚が、ひなたの胸を締め付ける。


ましろは、誰もいない道場を見つめ、静かに、だが鋭い目で状況を「フィルタリング」していた。田中事務員の言葉、理事長の動向、そして山田先生の態度。それら全てが、ましろの頭の中で複雑に絡み合い、一つの「違和感」として浮上していた。


「おかしい…」ましろが、低い声で呟いた。その声は、ひなたたちには聞こえない。


「何が、ましろ?」ひなたが、不安そうにましろの顔を覗き込む。


ましろは、その問いには答えず、脳内で情報検索を続けていた。田中事務員が「理事長ももう見限っている」と言っていた。だが、柔道部はまだ廃部ではない。そして、山田先生は、廃部条件を受け入れた。その「不整合」が、ましろの内部で「感情の膨張」を引き起こしていた。


その日から、ましろは放課後、柔道場に残らず、図書館へと足を運ぶようになった。ひなたたちは、「ましろも、やっぱり疲れてるのかな…」と心配したが、ましろは何も語らなかった。


図書館の静寂の中で、ましろは山田先生に関する新聞記事や、学園の過去の記録を読み漁った。山田先生がかつて、柔道界の輝かしい星だったこと。そして、彼の引退が、ある事故によるものだとされていること。しかし、その詳細がどこにも記載されていないことに、ましろの「違和感」は確信へと変わっていった。まるで、誰かが意図的に情報を隠蔽しているかのようだった。


「…やはり、何かある」ましろの瞳が、冷徹な光を放つ。その「感情の膨張」が、柔道部を守るという彼女の「価値観」をさらに強く発動させた。このままでは、柔道部が本当に消えてしまう。私だけが、この真実を突き止め、柔道部を守らなければならない。その「思考」が、ましろの中で明確な形を取り始めた。


ある日の昼休み、ましろは校舎の廊下を歩いていた。ふと、理事長室の扉がわずかに開いているのが目に入った。普段は厳重に閉ざされているはずの扉から、理事長と、田中事務員らしき声が漏れ聞こえてくる。ましろは、反射的に体を隠し、耳を澄ませた。


「…ですから、柔道部が完全に廃部になれば、その土地は計画通り、息子さんのスポーツジム建設に…」


田中事務員の声が聞こえた瞬間、ましろの心臓が「ドクン!」と大きく鳴った。その言葉は、ましろの内部で、これまでバラバラだった情報を一瞬で「フィルタリング」し、全てを繋ぎ合わせた。山田先生の過去、理事長の柔道部への圧力、そして柔道場の貸し出し。全てが、理事長の私利私欲のためだったのだ。ましろの顔から、血の気が引いていく。柔道部を守りたいという「価値観」が、激しい怒りと、裏切られた思いで「感情の膨張」を引き起こした。


「田中事務員、柔道部を存続させたければ、私の指示に従いなさい」


ましろは、その声に、思わず息を呑んだ。それは、田中事務員が、ましろにだけ聞こえるような、しかし、ひなたにも届きそうな距離で囁いた言葉だった。その言葉が、ましろの脳内で冷徹な指令として「即判別・即対応」を促す。柔道部を守るために、私は、何をすべきか。ましろの思考が、高速で最適解を探し始める。


放課後、柔道場。


ひなたたちは、部費削減と柔道場貸し出しの知らせに、すっかり意気消沈していた。畳の上に座り込み、沈黙が柔道場を満たしている。ひなたが、つばさの肩をそっと抱き寄せる。つばさの華奢な体が、小刻みに震えているのが伝わってきた。


「このままだと、柔道部、本当になくなっちゃうのかな…」はなが、泣きそうな声でつぶやいた。


ツムギも「漫画なら、ここで逆転劇があるはずなのに…」と、現実の厳しさに打ちひしがれている。


その時、柔道場の扉が、再び開かれた。そこに立っていたのは、理事長と田中事務員だった。二人の顔には、勝利を確信したような、傲慢な笑みが浮かんでいた。


「柔道部の皆さん。残念ですが、これ以上の検討の余地はありません」理事長の声は、低く、冷たかった。「新人戦での結果はご存知の通り。部費の削減、そして柔道場の貸し出しは決定事項です。早々に部活を諦めることをお勧めします」


理事長の言葉は、ひなたたちの胸に、鉛の塊のように突き刺さった。柔道場の埃っぽい空気、畳の匂いが、急に重く、息苦しく感じられる。楽しいはずのこの場所が、今まさに、奪われようとしている。ひなたは、体が震えるのを感じた。


「…そんな…」


ひなたのつぶやきが、広い柔道場に虚しく響いた。


田中事務員は、ひなたたちの絶望的な表情を見て、満足そうにフンと鼻で笑った。そして、ましろにだけ聞こえるように、囁いた。


「このままでいいのかね、青葉君?」


ましろの瞳に、激しい怒りと、そして強い決意の光が宿った。理事長の陰謀、田中事務員の嘲笑。それら全てが、ましろの「柔道部を守る」という価値観を、揺るぎないものへと固めていった。ましろの脳内では、「フィルタリング型」の判断が瞬時に行われる。柔道部を守るためには、どんな手段も選ばない。たとえ、仲間を一時的に欺くことになっても。


ましろは、その夜、誰にも知られずに理事長と密会していた。理事長室の重厚な扉が、ましろの背後で、ゆっくりと、しかし確実に閉じられる。その時、ましろの顔に、普段は決して見せないような、冷や汗が滲んでいた。ましろのスマートフォンには、理事長との密会の記録が残っていたが、ましろはそれを、無言で消去した。その行動は、柔道部を守るための、彼女の「思考」が生み出した「動作」であり、後戻りのできない一歩だった。読者には、「ましろ、これは本当に裏切りなのか…?」という強い疑念が、この一連の描写を通して、ヒリつくような緊張感となって突きつけられる。


【柔道部日誌:ましろ】

〇月△日

理事長と田中事務員…怪しい。柔道部を潰したいのは本気みたい。山田先生の過去にも何か関係がある?

柔道部を守るためなら、どんな手でも使う。たとえ、ひなたたちに隠し事をしてでも。これは、私の、部長としての責任。

理事長の計画…分かった。やはり、柔道場を別の事業に利用するつもりね。卑劣だわ。

私だけが、この状況を打開するしかない。最善の策を、私は選ぶ。たとえ、それが、誰かを傷つけることになっても。

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