第29話 それぞれの役割を
三月最初の日曜日は、気温が二〇度に達した暖かな日だった。アスファルトの脇に少しずつ雑草が芽生え始めている。
俺と徳永は都内の屋内スケートパークに向かっていた。シーズン最初の国内選手権大会が開催されるからだ。
選考基準になる世界ランキングに結果は反映されないものの、五輪代表をもにらんだ前哨戦の意味合いは小さくなく、多くの有力選手が参加する。当然、岸井もエントリーしていた。
徳永が大会のパンフレットを見ながら、何やら呟いている。年が明けて初めての大会の取材に、緊張している様子だった。
気持ちは分からないでもない。俺だって岸井に会うのは、あの日以来なのだから。
会場は暖房がかかっていて、半袖でも過ごせそうなほど暖かかった。岸井が練習しているパークよりも、セクションが密集していて、レールやカーブも長い。客席には既に何人かの観戦者が座っている。
取材席は用意されていなかったので、俺たちは最上段に座った。
その後も、続々と人が入ってきて、気がつけば百席ほど設けられた客席のほとんどが人で埋まっていた。パークの管理者に話を聞いたところ、これまでにない入りだという。「やっぱりオリンピック効果なんですかね」と、しみじみと語っていた。
腕時計は競技開始時刻の一二時を指そうとしている。話し声ばかりのパークは、耳当たりの言い洋楽に上書きされる。簡易的な掲示板に選手名が表示され、選手が入場してきた。
最後尾にいた岸井は、白地のTシャツに紺のスキニーという飾らない格好で、リラックスしていながら、どこか凛々しさを感じられた。
徳永が取材ということも忘れて手を振る。岸井も気づいて微笑みを返した。
競技が始まると、BGMはヒップホップに変わった。スケートボードの競技形式にはストリートとパークの二種類がある。そのうち、岸井が得意とするストリートは、四五秒の持ち時間でコースを自由に滑り得点を競うランと、障害物を一つ選んでトリックの難度を競うベストトリックの二つの種目で構成されていた。
目の前を華麗に滑っていくスケーターたち。いとも簡単にデッキを回し、グラインドを決める。
フィギュアスケートと同じで、素人目にはその技の難易度は分かりにくい。デッキの動きがあまりに早すぎて目で追えないのだ。
それでも、俺はまるで分かったかのように頷いてみせる。
岸井が360キックフリップを決めたときも、ついていけないのを承知で、口を開けて頷く。
高度なトリックが決まるのを見ていると、自然と心の底から楽しいという感情が湧いてくる。デッキに乗ったことすらないのに。
知らないなりの楽しみ方があるのは、どのスポーツでも変わらないようだ。
大会はテンポよく進んでいき、メモを取りながら見ているうちに、気がつけば終盤戦に突入していた。
ストリートは二回行われるランのうち高い方の点数一つと、五回行われるベストトリックのうちの高い方の点数四つの合計得点で争われる。
岸井の滑走順は最後だった。岸井はベストトリックを二回失敗していて、優勝のためにはこの滑走を成功させなければならない。絶体絶命の状況に追い込まれたと言ってもよかった。
徳永はメモを取ることを放棄して、両手を組んで祈るように見つめている。いつしか俺の目も釘付けになっていた。
BGMがサビに入ったのを見計らって、岸井が滑り出す。向かうのは全長二メートルもあるレール。ウィールの乾いた音が、緊張感を増す。
岸井はオーリーで飛び上がって、レールを越したかと思うと、ノーズをつけてグラインドをしてみせた。上半身には一分のブレもない。時間にするとわずか三秒ほどだが、それがどれほど難しいかは取材してきたから分かる。
体をもう半回転捻って着地。少しよろけはしたものの何とか堪える。
今まで女子では誰も成功したことがない大技を、岸井はこの土壇場で決めてみせた。
岸井が両手を突き上げた瞬間、パークは振動するかのような歓喜に見舞われた。熱狂が渦となって、拡散し、空気中を駆け巡る。それは最高のトリックを見せた岸井へのセレブレーションであり、予感でもあった。
得点がアナウンスされる。岸井は最後の最後にこの大会の最高得点をマークし、見事優勝を決めた。
同じスケーターたちと健闘を称えあう岸井に、徳永はありったけの拍手を送る。
俺も恥ずかしげもなく、痛くなるほどの手を叩いた。
取材が開始されるまでは、三〇分ほどの時間があった。その間に観戦者は全員帰ってしまい、パークには後片付けをする数人のスタッフしかいなくなる。
先ほどまでの熱狂が嘘のように静まり返った屋内。それでも、取材に応じる岸井の顔は誇らしげだった。安堵しているようにも見える。
「岸井選手、お疲れさまでした。そして、優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます。正直、満足のいく調整はできていなかったんですけど、良いスタートが切れてよかったです」
笑顔で岸井は語る。肩の荷が少しだけ降りたような。口元に開放感が滲む。
「ベストトリックの最後に決めたトリック、お見事でした」
「練習でも成功率はあまり高くなくて不安だったんですけど、この大会で負けたからって失うものはないですし、思い切って挑戦してみました。最後の最後でメイクできて、自信にもなったのでよかったです」
「今年はいよいよオリンピックイヤーです。これから世界ツアー等の大会も待ち受けていますが、改めて意気込みなどあったらお願いします」
「そうですね。オリンピックでやるって決まったときには、あまり実感が感じられなかったんですけど、だんだん近づいてきて、お客さんやメディアの方々が増えていることを見ても、注目されてるんだなって感じます。代表に選ばれるかどうかは分からないんですけど、オリンピックも含めて、やるからにはすべての大会で優勝したいです」
そう言い切る岸井に底知れない力強さを感じた。何か大きなことを成し遂げてくれそうな、そんなオーラが迸っていた。
容易に取材できなくなる日も、すぐそこまで来ているのかもしれない。
その後も二、三質問をした。ボイスレコーダーを向ける徳永も質問をしていて、岸井は選手のモードのまま答えていたけれど、親密さを隠しきれてはいなかった。
一〇〇パーセント心を許すことはないと言っていたけれど、白い歯が覗く笑顔からは、以前の状態に近いところまで戻ってきたことをうかがわせる。
「私たちからは以上です。取材に応えていただきありがとうございました。これからの活躍も期待しています」
俺は取材を終えようとすると、岸井が大きく息を吐いた。和やかに答えていたけれど、やはり少し緊張をしていたらしい。
はにかんでみせる。選手としてではなく、素の表情で。
「こちらこそ、今日はありがとうございました。取材してくれるの本当に嬉しいです」
選手からそこまでダイレクトに感謝の気持ちを伝えられたのは初めてだったから、返す言葉に困ってしまう。隣の徳永も恥ずかしげにしていた。
「私たちは仕事でやっているだけですから」なんて線を引く真似はしたくなかった。
「私、最近は気分転換も兼ねて、けっこう色々なパークに滑りに行ってるんですけど、そこで滑っている人たちの顔が本当に楽しそうで。私もスケートボード以上に楽しいことは知らないですし、最近は気持ちが外向きになったというか。スケートボードの楽しさをみんなが知ってくれるといいなって感じるようになったんです」
「私もです」。徳永が口を開いた。見上げる視線は希望の眼差し。
「私も岸井選手に出会って、スケートボードを教えてもらって、世界が広がったというか。日々にちょっとした彩りが加わって、次はどんなトリックをしようかと考えるのが楽しくて。本当にスケートボードを教えてくださった岸井選手には感謝してます」
「私も徳永さんや根本さんとは色々ありましたけど、知り合えてよかったなと今は感じています。こちらこそありがとうございます」
岸井はさも当然というように、サラッと言ってのけるから、俺は照れる暇さえない。ただ笑みをこぼすだけだ。
格好つけようなんて考えは微塵もなかった。真心には真心で返すのが一番だ。
「今年はオリンピックがありますから、スケートボードの楽しさ、面白さを知ってもらうのには絶好機です。私も頑張るので、お二人もお二人の役割を精一杯頑張ってください。期待してますよ」
岸井が無邪気にはにかむから、胸が痛む。スポーツ東美が三月で廃刊になることを知らないらしい。
それに、俺はオリンピックのときには、もう東美にいない。一観戦者に戻るだけだ。岸井に取材するのもおそらくはこれで最後。
そのことを岸井に伝えようかとも思ったが、徳永は残るし、東美もまるっきり消滅するわけではないので、曖昧に頷くことで収めた。
「はい! 精一杯頑張ります!」という徳永の決意表明が屋内に響く。未来が約束されている者の高潔な声だ。
「任せてください」と喉元まで出掛かった言葉を引っ込める。嘘はつきたくなかった。
言葉の代わりに岸井と目を合わせる。数秒後、岸井は一つ頷いた。俺も頷く。
俺の視線をどう受け取ったかは分からない。餞別にしては分かりづらすぎるが、分かりやすい言葉にしたい気分でもなかった。
俺は徳永に「ほら、行くぞ」と声をかける。
時刻はまだ二時半。取材はまだ残っている。
最後にもう一度、「今日はありがとうございました」としっかり頭を下げて礼をした。徳永も俺に倣う。
顔を上げると、岸井も深く頭を下げていた。三人でかすかに笑い合う。
そして、俺たちは燦燦と日差しが降り注ぐ屋外へと歩を進めた。
(続く)
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