第16話 サッカー人生は


「すいません、お忙しい中わざわざ時間作っていただいて」


 高池から指定された場所は、以前とはまた違う喫茶店だった。駅から少し離れた路地にあり、穴場な印象がある店だった。店内が焦げ茶色で、シックにまとめられている。ジャズが流れていて、喫茶店に慣れていない俺は戸惑った。奥の席に座る高池の、坊主頭が浮いている。


「いえ、呼び出したのは俺の方ですから。こちらこそ来てくれてありがとうございます」


 本当は暇はなかった。今日はAC東京の取材の最中にも移籍のニュースが数件入ってきていて、すぐに会社に戻って原稿を書かなければならなかった。

 だけれど、松谷さんに「今日高池と会う約束をしているんです」と言うと、快く送り出してくれた。松谷さんも来たがったが、一対一の方が高池も話しやすいだろうと、何とか説得した。


「この喫茶店はいいですね。大人の雰囲気って感じで。高池選手はコーヒーがお好きなんですか?」


 緊張をほぐそうと、俺はとりとめのない話題を持ちかけた。しかし、高池は目を逸らさずに、俺に向き合う。

 真剣な眼差しをしていた。


「可児さん、今日俺がしたいのはそんな話じゃないです」


「というと、やはり移籍の話でしょうか」


 高池は小さく頷いた。店内には、友達同士で来たという風情の女性が二人いるのみ。高池のことをまったく気にしていない。きっとサッカーに興味がないのだろう。高池が打ち明けるにあたっての障害は、何一つなかった。


「俺は、ロンドン・ユニオンに行きます。三年契約で、ヴァルロスにも移籍金を残します。明日クラブのホームページで発表して、明後日記者会見を開きます」


 時間が止まったと思った。だが、暖房の風が俺たちを撫でていて、空気は澱みなく流れている。

 俺は、高池に断ってメモ帳を取り出した。メモを取る間も高池は、黙って待ってくれていた。


「本当ですか」


「本当ですよ。この期に及んで嘘をつくわけないじゃないですか」


 高池の言葉はゆるぎなかった。信じることにする。


「それはいつ頃、決めたのでしょうか」


「一昨日、ファン感が終わった後に決めました。俺がヴァルロスのために、なにができるかって考えたんです。こんなに俺に期待してくれるファンやサポーターの方がいるなら、来年もヴァルロスでプレーするのが良いんじゃないかとも思いました」


 注文したコーヒーが運ばれてくる。高池はそれに一口、口をつけてから続けた。


「でも、ヨーロッパで勝負したいという夢も捨てきれなくて。ずっと迷っていたんですけど、神津さんの『サッカー人生は短いぞ』という言葉で、移籍することを決めました」


 俺はメモを取りながら、時折頷くようにして、高池の話を聞いた。コーヒーを飲んでいる暇はなかった。


「それはどうしてでしょうか」


「俺も一つ一つ積み上げていきたいと思ったんです。俺自身がもっといい選手になるために。オリンピックにも出られるように。そして、何よりヴァルロスのために。俺が、ロンドンで活躍すれば、前所属:東京ヴァルロスというのが大きく出るじゃないですか。そうすればヴァルロスがもっと有名になる。知られていないと、スタジアムに足を運んでくれないですから」


「移籍金を残すのも、ヴァルロスのためですか」


「そうです。契約が残っているこのタイミングでの移籍が、ヴァルロスのためになると思って決断しました。ヴァルロスには高卒で拾ってもらってお世話になったので、何か恩返しができないかなと。それは、俺がロンドンでプレーしている姿を見せることだという結論になりました。ロンドンは強豪ですけど、やれる自信はあります」


 初めて会ったときの高池からは想像もできない口ぶりだった。同年代であることを誇らしく思う。目頭が熱くなって、誤魔化すために俺はコーヒーを一口飲んだ。

 火傷しそうなくらい熱い。


「分かりました。俺も高池選手の決断、応援してます。でも、どうして発表になる前に、俺に伝えてくれたんですか?」


「だって可児さん、俺と年近いですし。他の記者さんと違って、あまり緊張せずに話せるんですよね」


「俺がもっと年いってたら、話してないってことですか?」


 いつの間にか砕けた話し方になっていた。高池が今日初めて笑う。


「違いますよ。可児さんは、いつも俺の話聞いてくれてたじゃないですか。他のどの記者よりも。なんかシンパシーを感じたんですよね。『ああ、この人はちゃんと俺を見てくれているんだな』って。可児さんなら、書いてもらっていいかなって」


 「それが仕事ですから」とは言わなかった。高池は俺のことを認めてくれていた。期待してくれる人が、俺にもいたのだ。

 また、目頭が熱くなる。今度こそ本当に涙がこぼれそうだった。だけれど、上を向くことでなんとか堪えた。


「じゃあ、俺はこれで。明日の紙面楽しみにしてます」


 高池は勘定を済ませて帰っていった。俺はしばらくその場を動けずにいた。早く松谷さんに報告しないといけない。コーヒーカップを持つ手が震えていた。少し冷めて、コーヒーの味が分かる。やはり苦い。

 コーヒーの水面に波紋が広がる。俺はスマートフォンを手に取った。





 編集局に帰ったときにはもう九時を過ぎていた。早版の締め切りは過ぎていて、高池の移籍の記事を突っ込むなら遅版以降しかない。

 俺と松谷さんは、編集部に入るやいなや一直線に向田さんの机へと向かった。向田さんは原稿のチェックに忙しそうだったが、俺たちが帰ってくるのを見ると、手を止めた。一瞬、緊張が走る。


「帰ってきたか。で、どうだった。高池の移籍は本当なのか」


「間違いありません。可児が高池から直接聞きましたし、長峰も認めました。高池はロンドンに移籍します」


 松谷さんが報告する。あの後、俺たちは長峰の元へ、ウラを取りに行った。長峰は最初なかなか認めなかったが、俺が高池から聞いたことを話すと、観念したように話してくれた。三年契約だということも確認済みだ。


「そうか。こりゃ一面ものの特ダネだな」


 そう言って向田さんは、整理部の人間を呼びに席を立った。俺は、松谷さんといくつか言葉を交わす。向田さんはすぐに戻ってきた。心なしか表情が柔らかい。


「高池の移籍、遅版の一面で行くことになったから。八〇行で頼むぞ。一一時までにな」


 その言葉は俺ではなく、松谷さんに向けられていた。経験の浅い俺が一面トップを書かせてもらえるわけがない。当然すぎて、傷つくことさえない。

 松谷さんは何も言わずにいる。奇妙な間。

 しかし、それは猛然と近寄ってくる足音によって剥ぎ取られた。運動第一部、つまり野球部デスクの古河さんだ。目には怒りの色が滲んでいる。


「おい、向田! どうなってんだよ、差し替えって! 今日はラビッツとアルバトロスのトレードが一面じゃなかったのか!」


 どれだけ一面を飾ったかは、担当デスクの評価になる。そして、それは出世に直結する。古河さんの怒りももっともだった。しかし、結局は自分のことしか考えていない。


「トレードは野球面のトップで扱えばいいだろ。今日は高池の移籍の方が重要だ。北方さんにも話をつけてある」


 編集局長である北方さんの名前を出せば、古河さんも納得するとでも思ったのだろうか。向田さんの口調はいたって冷静だった。だが、一面を潰された古河さんの怒りは収まらない。机を叩く音が、編集部中に響き渡る。


「野球はスポーツ新聞の華だろ! 読者だって野球のニュースが読みたいはずだ! それをないがしろにすんのか!」


「読者を自分の主張の道具に使うんじゃねぇよ!」


 向田さんの声が大きくなった。席を立って古河さんを睨んでいる。


「大体、トレードは球団からの発表ネタじゃねぇか! 書くことがないから一面で扱うってだけだろ! こっちはネタ掴んできてんだ! 今書けば、他紙を出し抜けるんだよ!」


 古河さんはたじろいだ。ここまで激しく反撃されるとは思っていなかったのだろう。

 部内の視線が一斉に俺たちに向くのを感じる。そんなことは意に介さないかのように向田さんは続ける。


「お前も記者なら分かるだろ。独自ネタ掴むのがどれだけ大変か。スクープこそが新聞の華だろ。今日はさ、こいつらの顔立ててやってくれや」


 向田さんは親指で俺たちのことを指さした。戸惑っている暇はなかった。自分でも気づかないうちに「お願いします」と頭を下げていた。

 自分のためではない。

 高池のためだ。ヴァルロスのファンやサポーターのためだ。


「分かったよ。今回だけだからな」


 願いが通じた。古河さんはまだ納得がいっていない様子だったが、とりあえずは引き下がってくれるらしい。頭を上げると、初めて松谷さんも頭を下げていたことに気づく。


 古河さんは自分の机へと引き上げていく。向田さんは、すっきりとした顔をして俺たちに向き直る。


「じゃあ、そういうことだから。松谷、頼むわ」


 やはり、先ほどの言葉は松谷さんに向けられていた。実感して、初めて心が少し痛む。


「すいません。今回は可児に書かせてやってくれませんか」


 松谷さんの言葉に、俺は目を丸くした。この人は何を言っている。俺は四月から総務課に異動する予定なのに……。


「今回、ネタを掴んだのは可児です。可児が書くのが道理だと思うんです」


 偽りのない言葉だった。そうか。松谷さんは俺が異動になることを知らないのだ。ただ、純粋な気持ちで俺にチャンスを与えようとしているのだ。


「可児、お前八〇行いけるか? 今まで肩すら書いたことないんだろ?」


 向田さんが釘を刺す。俺の胸は締め付けられる。不安しかなかった。逃げ出したくもなる。

 俺が一面トップを書く……。

 息を、吸い込む。


「はい、できます。やらせてください」


 心が言っていた。それが口をついて出た。

 チャンスは誰にでも与えられるわけではない。不平等なものだ。だから、与えられたらしがみつくしかない。振り落とされないように、必死に。


「分かった。一一時までに初稿を出すこと。もしダメでも俺が直してやるから心配するな。思いっきりやれ」


 言葉と、裏に隠された期待を受け取る。俺は「ありがとうございます」ともう一度、頭を下げてから、自分の机に戻った。書きたいことはいくらでもあった。あとは、形にするだけだ。

 パソコンを開いて、最初の一文字を入力する。

 戦場へ向かう兵士のイメージが、頭の中で重なった。


(続く)

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