第3話 初取材
出てきたのは、坊主頭の選手だった。
「高池選手、スポーツ東美の可児です。お時間少々よろしいでしょうか」
まず、自分から相手の名前を呼ぶ。相手は自分のことを知ってくれているのだと気づき、取材がスムーズにいく。研修で教えられたとおりに、俺は高池の名前を呼んだ。高池は立ち止まり、俺が差し出した名刺を両手で受け取る。一瞬怪訝な目を向けられもしたが、プレスの腕章を目にすると、少し態度は軟化した。
「次節は三位につけるAC東京の取材ですが、意気込みなどあれば教えてください」
「そうですね。全力を尽くして勝てるように頑張りたいと思います」
知識のない俺はそれ以上、何を聞いたらいいのか分からなかった。
とにかく一刻も早くこの微妙な時間を終わらせたくて、何を間違えたのか「ありがとうございました」と言ってしまう。俺の初めての取材はものの三十秒で幕を閉じた。高池は、口を小さく開けて驚いた様子を見せていたけれど、すぐ軽く礼をして、自分の車に向かって行った。
一息つく間もなく、振り向く。松谷さんの眉が上がっていた。
「初めてならそんなもんか。でも、質問がまずかったな。『意気込みを教えてください』だと抽象的過ぎるから、もっと具体的な質問をしないと。『相手のDFにはこういう特徴がありますけど、どう乗り越えていきたいですか』とか。ちゃんと勉強しとけよ」
松谷さんに言われて、肩をすぼめた。野球面しか読んでこなかった自分の浅薄さを恥じる。
「まぁ相手も少し悪かったかな。高池はあまりメディア得意じゃないから。少しシャイなところもあるし。でも、今回取材が上手くいかなかったのは、お前の準備不足のせいだからな。ちゃんと覚えとけよ」
いきなり話してみろと言われたら、そりゃ準備不足にもなる。そう言おうとしたが、俺はその言葉を飲み込んだ。もし、スクープがあったら準備不足なんて言ってはいられない。チャンスはいつやってくるか分からないのだ。
また、クラブハウスから選手が出てくる。名前はまだ覚えていない。
それでも、俺は少しためらいつつ、選手のもとへと歩み寄っていった。
練習の取材を終えて、戻ってきた社内はまだ余裕があった。早版の締め切りまで三時間もあるからだろうか。編集会議を終えたデスクの中には、記者に指示を出した後、喫煙所に向かって行った者もいた。俺は初めての出稿作業を間近に控え、緊張しきりだというのに。
俺に割り当てられたのは一二文字×一〇行のベタ記事だった。新聞では一段の写真もないような小さいニュースをベタ記事と呼ぶ。あまり目を通されないこのベタ記事が俺のデビュー戦になる。
クラブが発表した選手の負傷のニュースだ。俺の記事が新聞に載る。そう思うと、なかなか書き始められなくて、止めたはずの電子タバコの味が恋しくなる。
ふと隣を見ると、松谷さんは四〇行のヴァルロスの記事を、半分ほどまで書き上げていた。触発されるように、キーボードに指を置く。
「東京Vは一日、公式サイトでMF
初めて書いた原稿。パソコンの画面を見直す度に、一文字一文字がチカチカして見える。これだけの記事を書くのに二〇分もかかってしまった。
大きく伸びをしようとすると、松谷さんは立ち上がってプリンターに向かって行った。デスクにチェックしてもらう初稿ができたらしい。少し丸まった背中がいつもより大きく見える。
俺も初稿を印刷して、向田さんのもとに持っていく。少し怪訝な顔をされた。「うん」とだけ言われる。好意的な意味でないことは明らかだった。
帰ってきた初稿は修正指示で真っ赤だった。いくつかの固有名詞を除いては、全て書き直し。「最後の一文丸々要らない」と書かれたのには堪える。
「一〇分で書き直してきて」
向田さんからそう告げられて、俺は自分の机に戻っていく。辞書と選手名鑑だけが増えた机は、他のどの机よりも寂しく、俺の中身の無さを表していた。
確認すると身長でさえ間違えていて、不甲斐なさが身に染みる。頭を何度もかきむしりながら直した二稿も、通ることはなかった。
改稿に次ぐ改稿を経て、ようやく向田さんにオーケーをもらえたときには、早版の締め切りの一〇分前になっていた。自分の不出来を恥じる。
反対側の五輪担当の机からはきはきとした声。徳永だ。ベタ記事でも二本上げたらしい。しかも、直しは一回だけ。
松谷さんから「みんな誰でも最初はそんなもんさ」と肩を叩かれた。励まされたけれど、良い先輩を演じているようにしか思えない。
「明日こそは頑張ります」
そう言おうとしても、次の瞬間には「お前の頑張りなんて大したことないんだよ」と返されそうで、囁くような声にしかならない。昨日の自己紹介の面影は、今の俺にはもうなかった。
編集局は慌ただしさを増していく。早版が終わっても、遅版の締め切りがやってくる。
松谷さんに「何かできることありますか」と聞いたけれど、返ってきたのは「もうないから今日は帰っていいよ」というあっさりとした言葉だけだった。
このままいても邪魔になるだけだ。簡単な帰り支度をして編集局を後にする。誰も俺に目をくれない。
エレベーターを待っている間、俺は拳を握り締めていた。自分が想像以上に無力な存在であることが、悔しくてならなかった。徳永はまだ出てこない。そのことが、俺を余計に惨めたらしくさせる。
唇を噛みしめようとしたその時、ズボンのポケットでスマートフォンが振動した。
ホーム画面の中央に、表示が浮き出ている。
〝今飲んでんだけど、これから来れる?〟
ひどく空気を読まない、乾いた声さえ聞こえてきそうな文面だった。
「三ヶ月の研修も終わって、とうとう可児も本配属か。とりあえずはよかったな。今日はその祝いだ。俺がおごってやるから、いっぱい食えよ」
駅前の居酒屋は、週末ということもあり満席だった。木目調のパネルで仕切られた一角で、俺を誘った相手は鷹揚に告げる。
編集局ではなく印刷局に勤める石川さんは、OB訪問のときも「俺でいいの?」と言っていたが、俺が野球が好きなことを打ち明けるとすっかり気に入ってくれたようで、それから何度か飲みに行っている。
「石川さん、ここで飲んでいて大丈夫なんですか。朝刊の印刷これからですよね……?」
「いいのいいの。俺、今日のシフトは夕刊で終わりだから」
大きな声で笑う。何が可笑しいかはあまり分からない。もう大分出来上がっているようだ。石川さんは大学まで野球をしていたらしいが、たるんだ腹と脂肪で膨らんだ顔を見ていると、とてもそうは思えない。
それでも、あまりにあっけらかんと笑って見せるので、俺もつい笑顔になってしまう。同僚からは親しみを込めて〝えびす様〟と呼ばれているのを聞いたことがあるが、それも頷ける親密さだ。
「で、どうだったよ。初日は。上手くいったか?」
まるで父親にでもなったかのように、石川さんが聞いてくる。俺は愛想笑いで答える。中ジョッキのビールを一口運び、軽くため息をついた。
石川さんに勧められて飲むようになったビールの美味さは、まだ分からない。
「その様子じゃ、あまり上手くいかなかったな」
見透かされてしまう。嘘を言って間を持たせることに、意味はないだろう。
「聞いてくださいよ。俺、今日ほとんど何もしなかったんですよ。名刺は配れましたけれど、選手への取材は上手くいかず、一〇行のベタ記事を書くのだって二時間半もかかったんですよ。自分がここまで何もできないとは思いませんでしたよ」
「まぁ、一年目は仕事を覚えるだけで終わっちまうしな。みんなそんなもんだよ」
石川さんもビールを口に運ぶ。半分ほど残っていたのに、一気に飲み干していた。酒に強い石川さんのことをいつも羨ましく思う。
「四回も直せって言われて、大変でしたよ。先輩には「お前はカニじゃなくてカメかよ」って言われましたし。今日初めての人間にそれはなくないですか」
「今日一日でだいぶ溜まったみたいだな。飲め飲め。俺が全部受け止めてやるから」
「すいません。明日も早いんでそんなに飲むわけには……」
「真面目かよ」という石川さんの顔は、それでもなお笑っていた。OB訪問の時以外、この人が笑顔ではないのを見たことがない。いつも飲んでいるときにしか、会ったことがないからだろうか。
「まあデスクの手が入らないような完全原稿は、二年目や三年目になっても難しいもんだよ。お前のとこの根本だって、二年目の一二月になってようやく書けるようになったみたいだし」
石川さんが注文していたビールが運ばれてくる。中ジョッキは俺が来てからもう三杯目だ。
「まあカメって言うんならさ、一歩一歩進めばいいじゃんか。それがカメの領分だろ。じっくりやれよ。俺は応援してるから」
テーブルを越えて肩を叩かれる。石川さんの手は俺が知り合った誰よりも大きい。「頑張ります」とだけ答える。石川さんは満足そうに頷いていた。
明後日は、AC東京と東京ヴァルロスの東京ダービーが待ち構えている。
初めての試合取材が、間近に迫ってきていた。
(続く)
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