——ゴゴゴゴゴゴゴ


 床下から地鳴りのような音が聞こえ、目を覚ました。


(地震だ)


 裕也は上半身を跳ね起こし、身構える。しかし、小刻みに体が上下に揺さぶられるだけで、いつまで経っても大きな横揺れは来ない。警戒しながら、暫くして枕元に置いていたスマホを見る。深夜三時。部屋の中は真っ暗で、微かにカーテンの隙間から月明かりが入ってくるだけだ。


 数分して小刻みな縦揺れと地響きは治まり、再び床に付こうとした。


「ギギギ、ガリッガリガリ」


 例の音だ。彼の左背後。ちょうど大窓がある壁の左端。そこまでは二メートルほど離れているが、かなり大きな音量で聞こえていた。


「ギリギリギリギリ」


 外壁の木板を鋭利な物で削るような嫌な音だ。裕也は、四つ這いになってゆっくりと壁側に移動する。左耳を壁に寄せ、その奥にいる存在の息遣いを聞こうとした。クマであれば、唸り声や呼吸音が聞こえる可能性がある。ところが、思ったよりも壁が厚いのか、鋭いものを擦り付ける音以外に、生命を感じさせられるような音は聞こえてこなかった。


(クマじゃないのか?)


 ゆっくりと立ち上がり、右手にある窓のカーテンを端からそっと捲る。その手は震えていた。壁の裏が見える位置まで離れて見てみるが、クマや人のような影は見当たらない。何かが動く気配もなかった。


 一旦離れ、スマホの懐中電灯を照らしながらもう一度確認する。やはり何もいない。だとしたら、この音の正体は何だろうか。この家に住む限り、ずっとこの耳障りな音に悩まされ続けるのか。それは耐え難い。幾つもの家族が、この音のせいで転居せざるを得なかった。絶対に正体を突き止めたい。


 そう考えた裕也は大窓の鍵を開け、庭へ飛び出した。


「おい!」


 もしそこにクマがいれば、この瞬間にはらわたが飛び散っているだろう。だが、彼が叫んで数秒経っても何かが飛んで来ることはなかった。ただの闇が広がっていた。最初からそこには何もいなかったのだ。


 壁を引っ掻く音は、彼が庭へ飛び出した時には止んでいた。


「どういうことだよ……」


 ライトの光が外壁を照らした。確実に直前まで結構な音量で「ガリガリ」と壁を引っ掻く音が聞こえていたはずだが、傷跡は一本も見つからない。あれだけ音がしていたら、かなり強い力だったはずだ。傷が付かないなど、あり得ないのだ。


 そう考えた瞬間に寒気が走った。即座に窓を離れ、床に敷かれた布団に潜り込んだ。

「気のせい……いや」


 そんなことはない。単なる気のせいならば、異なる家族が同じ音を聞くはずがない。


 だとするならば——


(……幽霊)


 普段そんなものを信じるたちではない。しかし、説明が付かないこの現象を前にして、他に何があるだろうか。硬く目を瞑り、早く朝が来ることだけを願った。


 ——チリリリリリリッ


 目覚まし時計の音で、瞼が瞬時に開いた。朝六時半。いつの間に朝を迎えていた。もう時期彼女が来る。すぐに起きて顔を洗い、寝癖を整える。七時を回った頃に彼女が訪ねて来た。


 玄関ではなく、庭から大窓を「コツコツ」と叩いてきた。昨日、門を閉め忘れていたのだろう。片付けでバタバタしており防犯対策など考える余裕もなかったが、流石に大家の話と夜中のこともあり身が引き締まる。


 大窓を開け彼女を招き入れた。昨日、寝る前にほとんどの物は片付けておいた。だが、まだリビングルームの方にはダンボールが二、三個積み重なっている。


「お邪魔します」


 そう言って入ってきた彼女の身なりを見た。服が昨日と変わっていないことに気が付いた。同じような柄の服を二枚持っているのだろうか。まだ出会って間もない。そんなことを聞いたら失礼だと思ったため触れないでおいた。


「早かったですか?」


「全然! そういえば、昨日も音がしてましたが、大丈夫ですか?」


「音? ああ、昨日仰っていたあれですか? 私の方では何も……」


「そうですか……」


 思えば、距離的に考えて彼女の家の中まで音が届くことはないだろう。それに、姿が無いのであれば、どうやって警戒させたら良いものか、説明に困る。


「とりあえず、朝飯食べますか」


「あ、私はもう済ませて来ました」


 彼女は遠慮がちに両手を振りながら言った。


「でも、ありがとうございます。なら、裕也さんが食べている間にお庭を片付けて来ましょうか」


 そんな服装で汚れないか気になったが、せっかく来てもらったのに待たせるわけにもいかない。バケツと鎌を手渡し、刈り取る場所を指示した。念のために、窓は全開にしていた。だが、一人で作業させるのも何か申し訳ないと思い、軽く食べられるようなトーストとコーヒーで済ませ、庭へ出ようとした。


「きゃあっ」


 彼女の悲鳴が聞こえた。もしかしたら動物か何かに襲われたのかもしれない。額から汗が滲み出て、鼓動が徐々に早くなる。裕也は一目散に声がした方へ駆け寄った。


 隣家の壁に沿うようにして張られているフェンスの下に、彼女が蹲っていた。


「大丈夫ですか?」


 近付いて行くと、微かに泣き声が聞こえてきた。


「痛い……痛い……」


 彼女が泣きじゃくりながら右腕を押さえているので、目の前にしゃがみ込み確認した。右前腕の内側に、斜めに十センチほどの切り傷ができていた。そこから真っ赤な滴が垂れている。


「ち……血……」


 彼女は自分の腕から垂れる血を見てパニックに陥った。


「死んじゃう……死んじゃう!」


「落ち着いてください。傷はそんなに深くないので、止血すれば大丈夫です」


 裕也がそう言って彼女を落ち着かせようとするが、彼女はほぼ悲鳴に近い泣き声で彼の腕の中で暴れ始めた。


「大丈夫、大丈夫ですから!」


 何とか彼女を抱えて立たせ、家の中に入れた。


 ダンボールに入れたままになっていた救急箱を取り出し、消毒液とガーゼ、包帯を取り出した。洗面台で彼女の腕を洗い流し、消毒してガーゼで固定し包帯を巻いてあげた。


「ほら、もう大丈夫でしょ?」 


 彼女の赤く腫れた目を見て宥めた。彼女はまだ微かに啜り泣いていたが、黙って頭を下げた。暫くして呼吸も落ち着いたが、まだ気分が優れないのか、ぐったりとリビングのソファーにもたれていた。


「ごめんなさい……。私、小さい頃からパニック障害があって、血を見ると駄目なんです」

 彼女は、救急用具を片付ける裕也の姿を不安そうな目で見つめていた。話を聞くと、硬い草を刈り取る時に振り切って自分の腕を切ってしまったらしい。 


「びっくりさせてしまいましたよね……恥ずかしい……」


「大丈夫ですよ。僕の方こそ、使い慣れない鎌なんて渡したから。僕の責任です」


「裕也さん……。裕也さんは、優しい人なんですね」


 彼女はそう言うと、振り向いた裕也の顔を見て薄く微笑んだ。


「裕也さんみたいな人と一緒にいたかった……」


 彼女は俯いて、包帯を巻かれた腕を左手でそっと撫でていた。裕也は彼女の悲しげな顔を見て居たたまれなくなり、隣に座って彼女の肩を撫でた。


「僕、ここにいますよ……」


 彼はそう言うと、にこりと微笑み返した。


「私、ずっと誰にも愛されていないんじゃないかと思ってました。施設の職員は、お母さんみたいにはなれないですから……。下の子供たちの世話で手一杯で、愛情なんて、分かりませんでした。私だけの『家族』が欲しかった……。やっと手に入れたと思ったのに……」


 詳しく話を聞くと、養父は彼女が高校生の頃に肺癌で、養母は大学を卒業して間もなく心臓の持病が悪化してこの世を去ったという。大学時代は県内の学寮にいたが、養母の死をきっかけに戻ってきた。その頃付き合っていた男性とその家で同居することになり、後に結婚したと話してくれた。


「また愛してくれる人を失ってしまったの。あの人が、私にとっての最後の希望だった。なのに……あの人は……」


 そう言いかけると再び泣き出し、声が出そうになるのを左手の甲で抑えた。


「僕も……そうかもしれない。まるで奴隷みたいに扱われるようになって、人が信じられなくなったんです。だから、所詮家族なんて『飾り』みたいなもんだと思って生きてました」


「『飾り』じゃない、本当の家族って……作れると思いますか?」


 彼女が鼻を啜りながらそう聞いてきたので、裕也は重く首を傾げた。


「今の僕には何とも……」


 裕也がそう言うと、彼女は頭を肩に摺り寄せてきた。最初は驚いたが、彼女はすっかり緊張が解きほぐれているようで、肩に体重を乗せて力を抜いていた。


「愛されてないと思ったの?」


 彼女が上目遣いで聞く。


 思い返せば、里美に「愛してる」と言われたことは一度もなかった。いつも、心のない人形を見るかのような態度で接されていた。自分に対する愛情なんて、実は少しも無かったのではないかと思うようになった。ただ容姿が他よりも好みだったから、『形は好き』だから一緒にいた。まるで、買ったばかりの人形を愛でるように。だから、その奥に『心』があることは考えてもいない。思い描けないことを彼が言うなりすると、途端に幻想が打ち砕かれる。その時点で、里美にとっての理想の夫は存在しなくなる。


 里美が本当にそう考えていたのか分からないが、合点がいくことは幾つもある。周りの目を気にして勝ち組を演じていたが結局失敗に終わり、意地を張って妻も子供も家族も必要ないと決め込んでいたが、何よりも本当に欲しかったのは、自分を認め、理解してくれる存在だった。ここで出会った彼女が、自分の本心に気付かせてくれたのだ。


「悲しい顔をしているわ」


 裕也の表情を見て心配したのか、まだ涙ぐんだ顔で彼を見つめていた。


「もう、大丈夫ですよ」


 裕也はゆっくりと彼女の頭を撫で、体勢を変えて胸に寄せた。


「温かいのね、人間の体って……。そういえば、こうやって抱いてくれたこと、なかったな」


 彼女は、胸に耳を付けて彼の鼓動を聞いていた。


「今度は、僕が雑草抜きやりますよ」


「私は何をすればいいでしょう?」


 彼女は寄せていた頭を浮かせて彼の顔を見た。こんな近距離で見つめられるのは慣れておらず、「そうだなぁ」と誤魔化しながら視線を変え大窓の向こうを見つめた。


「実は僕、花壇を造ろうと思いまして——」


 咄嗟に思い付いた案だった。本当は花壇を造ろうなどこの言葉が出てくるまで考えもしなかったが、殺風景な庭を彩るには名案だった。だが、土を盛るタイプは中々手間がかかる上、大家の認可も必要だろう。囲いになるレンガも持ち合わせていない。小規模だが、すぐに花を植えられるような手軽で単純な花壇を造ることにした。前の住人がここで自家栽培をしており、地面は軟らかく適度に湿っていて植え付けには向いていた。ここに直接花を植えても、すぐに枯れてしまうことはないだろう。


「なら私の家にお花がいっぱいありますので、何種類か持って来てあげましょう」


「え、いいんですか? 良かった……何を植えようか迷っていたもので……」


 彼女はそう言うと、小走りで玄関から出て行った。


 二十分程して、彼女がウッドワゴンに花の植木を乗せて庭の方へやってきた。それに気付いた裕也は、庭の門を開けてやった。


「ついでに使っていない柵もあったので、これで囲い作りませんか?」


「ありがとうございます」


 彼女は他にも、スコップなどのガーデニングに必要な道具を一式持って来てくれていた。


 花壇を造る場所は、門があるすぐ隣。彼女が来るまでの間、そこだけ雑草を綺麗に抜き取っていた。


「これだけ雑草が生えるんですもの。きっと私の家よりも元気に育つわ。あっ、ねぇ、あそこ見て!」


 彼女がにこにこしながら、三メートルほど離れた場所を指さした。花壇になる予定の範囲からほんの十数センチ離れた場所に、白い点の集合体のようなものが見える。


「スイートアリッサム。春と秋に良く咲いている花です。前に住んでいた人が植えたのかな?」


 彼女はその花の前にしゃがみ込み、楽しそうに観察していた。


「花言葉は『優美』。確かにその言葉通り、綺麗ですよね。本当はもっと密集しているのが特徴なんですが、房の数が少ないですね。もしかしたら、かなり前に植えられていたものかもしれないわ」


 裕也も彼女の隣にしゃがみ、真っ白い小さな花をじっと見つめていた。花から微かに甘い香りが漂っている。あまりにも小さ過ぎて、作業している時には気が付かなかった。危うく踏みつけるところだった。


「お花に詳しいんですね」


「昔、近所のお婆様から教えて頂いたことがあって。同じ花がありました。もっと沢山咲いていたわ。でも、良かったわ。これからもっとお友達が増えるから」


 か細くて軟らかく、子供を可愛がるような高い声が印象的であった。彼女は優しく微笑みながら、その花に話しかけていた。


「素敵な人だな……。花を、まるで人間のように大切にするから」


 彼がそう言った直後、花弁はなびらが萎れていくように彼女の笑顔が曇ってしまった。


「私の友達は『花』だけでした……。子供の頃は人と関わるのが苦手で、ずっと公園で花を見ていました。そしたらいつしか、花の気持ちが伝わってくるようになって……。その通りにしたら、もっと綺麗な花を咲かせるようになったんですよ。不思議に思うかもしれないけど、『奇跡』ってあるものなんだなって」


 彼女は膝の上に手を組んで置いた。組まれた腕で口元を隠し、少し考え込んだ後に花を見下ろす裕也の横顔を覗き込んだ。


「裕也さんは、『奇跡』を信じますか? ……あぁ、ごめんなさい。こんなこと言ったら、どこかの宗教の勧誘みたいね」


 彼女はゆっくりと立ち上がり、ワゴンに乗った花の植木を手に取った。


「あなたと出会えたことが奇跡ですよ」


 裕也は瞬時に立ち上り、彼女の背中に向かって言い放った。植木を持った彼女の歩みが止まる。暫くそのまま動かず、彼女の肩が震えているのが分かった。彼女がそっと振り向くと、その目からは涙が零れていた。


「すみません。変なこと言いました」


「……変なことじゃないわ」


 悪びれて目を伏せていた彼がすっと真正面を向き、彼女の顔を見た。彼女は屈んでゆっくりと植木を地面に置くと、彼の胸元に飛び付いた。


「私のこと、受け入れてくれるの?」


 彼女の行動にドキッとしたが、その言葉の意味をすぐに理解できた。


「もう、一人じゃないですよ。最初から関わろうと思わなかったら、あなたの家には来てなかったでしょう? 僕が、花よりも大事な友達になるって言ったら、どうする?」


「花よりも……大事な……」


 小声でそう呟くと、彼の腰を抱きしめる力が強くなる。彼の顔を見上げ、ほんのりと口角を上げて言った。


「ねぇ……私の名前、教えてあげる」


 そういえば、名前をまだ聞いていない。昨日は話に夢中になり、すっかり彼女の名前を聞くのを忘れていた。


「私の名前は『ミサキ』」


「ミサキか……可愛い名前だ。まるで、この花みたいだな。優しくて、美しい響き」


 彼が冗談っぽく言うと、ミサキは声を漏らして笑った。


 笑顔で見上げる彼女の右目の下には、小さな黒子があった。肌は色白で、陽に当たると反射で真っ白になる。鼻の頂点はより薄くなり、目元の陰影がはっきりしていた。口角が上がると小さな笑窪えくぼができ、まだあどけなさが残る顔をしている。 


ミサキは裕也の手を取ると、ピンクの花が咲いた植木を持たせた。


「気を取り直して、そろそろ始めましょうか」


 彼女のその素顔は、裕也の中で一番深く、長く記憶に刻み込まれることになった。


 ミサキといる時は、まるで夢を見ているような気分になる。とても心地が良く、この瞬間がもっと続くようにと願った。これが『現実』であり、今までの人生が悪夢であったのだと、彼はそう思い込んだ。


「私、あまり人には名前を教えないの」


 ミサキは自分のスコップで土を掘り返すと、脇に置いていたパンジーを上手に鉢から出し、穴に入れて優しく土を被せてあげた。


「教えるのは、仲の良い人だけ。もう一人いるのよ。可愛い小さな女の子。可愛過ぎて、つい意地悪したくなっちゃう」


「子供はいつ見てもかわいいよ。うちの娘に合わせたかったよ。子供好きなの?」

「ええ。私もいつか子供を持つのが夢なの」


 裕也は花壇の脇に長さ三十センチぐらいのガーデンフェンスを刺し込んだ。ミサキは腕が痛むのか、時折包帯が巻かれている腕を撫でていた。


「痛むか?」


「少しだけ。でも平気……」


 一時間ほどで花を植え終わり、花壇が完成した。後は前方にまたフェンスを刺し込むだけ。


 裕也は徐にスマホを取り出し、時間を見た。もう少しで昼を迎えようとしていた。


「区切りが良いし、この辺で休憩しようか」


「そうね」


「コンビニ行って昼飯買って来るよ」


「ありがとう。でも私、あまりお腹が空かないの」


「そうか……。じゃあ、飲み物だけでも買って来るよ」


「ええ、お願いします」


 元々小食なのか、遠慮しているようにも見えなかったため気にしないでいた。


 バイクで自宅から五分ほど離れたファミリーマートで降り、適当に弁当と飲み物を買って戻る。


 自宅に着く手前の曲がり角で、昨晩話した向かいに住む女性とばったり再会した。速度を落とし「こんにちは」と声をかけると、今度はしっかりと応えてくれた。


「ああ、昨日の新入りさんね」


「はい。昨日はあまりお話聞けなくて」


「悪かったわね。急に人がいるもんだからびっくりしちゃって。永井です。もう三十年近くここにいるから、何か分からないことがあったら聞いてちょうだいね」


 永井がそう言うと、裕也は昨日の異音のことを聞いた。


「昨晩、壁から変な音がしたんです。引っ掻くような奇妙な音でした。何かご存じですか?」


「前に住んでた墨田さんも同じこと言ってたわ。だから、危ないと思って昨日もあなたに言ったのよ。みんな、同じこと言って出て行っちゃうのよ。人が寄り付かない家……特にあそこで何か起きたわけではないんだけどね。つい最近よ。大家さんの妹さんが住んでたでしょ、あそこ。美恵子さんって言うんだけどね、お隣のお嬢さんとすごく仲良さそうにしてたわ。でも……お嬢さんがあんなことになるなんてね……」


「どんなことですか?」


 裕也がバイクに跨りながら、永井に身を寄せた。


「あの家、殺人事件があった場所だから。あぁ、あなたは知らないかな。旦那さんを刺し殺して、自分も……。警察の人が沢山来ててね、野次馬する気はなかったんだけど、気になって見に行ったのよ。美恵子さんに聞いたら、お隣のお嬢さんと旦那さんが血を流して倒れてたって……。いろいろ事情聴取を受けてたわ。それきり、あの子が家に帰ってくることはなかったみたい。まだ若いのに……可哀想よねぇ」


「今、別の方が住んでますよね? 女の人が」


「え、そうなの? 何も聞いてないけどねぇ。あれからずっと空き家だって」


 そんなはずはない。今あの家に住んでいるのはミサキである。裕也は怪訝な顔で首を傾げていた。


「ちなみに、そこに住んでいた方の名前は?」


「それが私も分からないの。あまり親しくなかったから……。彼女、ほとんど家から出てこない人だったみたいで。旦那さんの方はちょこちょこ見えるから挨拶してたけど」

「そうですか……」


 暫く沈黙が続くと、永井は「うーん」と首を捻りながら何か思い出そうとしていた。


「あの事件があってから、美恵子さんが亡くなって一番初めに越してきた人。佐藤さんだったかしら。あの人とたまに話すことがあったんだけど、隣の人を家に上げてから変なことが起こるようになったって言ってたわね。別の家の方だと思ってたけど。あの音もそうだけど、夜中に地鳴りがして、地震だと思って翌日近所に話してみたら誰も知らないって。あと、普段からしょっちゅう物が無くなることもあったみたいね。大きな物から小さな物まで。空き巣がいるんじゃないかって言ってたけど。今思うと、もうその時からあの家に誰か住んでたのかしら……」


「地鳴り……」


 夜明け前に起きた現象を、一番初めに住み着いた佐藤という家族も体験していたそうだ。やはり、あの平屋では決まって同じ現象が起こるようだ。だが、物が無くなったことは引っ越してからはまだ一度もない。作業に夢中で、そんなに重要でない物ならば気が付いていないだけかもしれない。


「その隣の子、何ていう名前なの?」


 永井が興味津々に聞くが、裕也は答えられなかった。彼女から名前を聞いたはずだ。さっきまで覚えていたのに、質問をされた瞬間、その単語だけすっかり記憶から抜け落ちてしまっていた。言えないのではなく、思い出せないのだ。


「えっと……あれ、何だったっけ」


「ともかく、もうあそこにお嬢さんが戻って来ないということは、きっと、亡くなったのね……。あなた、中野さんって言ったわよね。あの人が言うことを真に受けるわけじゃないけど、あまり人を家に入れない方が良いと思うわ。空き巣の犯人かも分からないんだし。あそこの家に長く住むなら、普段から戸締りには気を付けるのよ」


 永井はそう忠告すると、反対側へ歩いて行った。


薄気味悪い話だったが、少なくとも空き巣の犯人は彼女ではないと思われる。大きな物を移動させるには、やはり集団の犯行ではないと難しい。だが、彼女は現在一人で暮らしている。さらに、あまり社交的ではなく、警戒心が強いのか、親しくなければ名前も明かさない徹底ぶりだ。そんな彼女が、何処からか人を集めて犯行に及ぶとは考えにくい。それに、あの家を見る限り結構裕福な家庭だろう。かなりお金をかけてリノベーションをしている。物を盗む動機が分からない。旦那がいなくなってから生活が苦しくなり犯行に及んだとも考えられるが、そう考えると時系列が合わなくなる。


 初めて現象が起きたのは、佐藤家が越してきた三年前だ。彼女は、旦那がいなくなったのはここ数日前と言っていた。また、物の紛失と、地鳴りや異音の関連性が分からない。異音が出ている場所は分かっても痕跡はなく、スピーカーのような物も無かった。人工的に作られたとは考えにくい。地鳴りを人の手で生み出すにも、かなり大掛かりな仕掛けが必要になる。当然個人でできる所業ではない。このことから、これらの現象に『人間』が絡んでいるとは思えなかった。


 そして、あの青い瓦屋根の家の住人についてだ。彼女の前の住人は何者だったのか。彼女と同じく夫婦だったらしいが、彼らも三年前、無理心中で亡くなったという。その後、隣に住む美恵子も亡くなり、貸家となって越してきた佐藤家から現象が始まった。裕也が越して来る現在まで、その現象は続いている。隣家の心中事件の犠牲者、そして、どういう経緯で彼女が事件のあった家に移り住んできたのかが気になった。


 屈託顔で家に戻ると、彼女が花壇の側に佇んでいた。彼女の顔を見た瞬間、その名前が『ミサキ』であったことを思い出した。何故さっきは思い出せなかったのだろうか。きっと、疲労で記憶力が鈍くなっているのかもしれない。今日は夕方で切り上げて、ゆっくり休むことに決めた。


 ミサキは手招きして裕也を呼んでいた。左腕にもう一つ植木を抱えていた。彼の元へ駆け寄ると、少し真剣そうな顔で花を見せてきた。真っ赤な花であったが、花弁に皺ができていて萎んでいるように見えた。


「この子、先週ぐらいからずっと元気がないの。多分、この植木鉢で育てるのは向いてないのかも。せっかくだから、あの子の隣に植えてあげようかなって思うの」


「いいんじゃないか?」


 あの子とは、先程二人で見ていたアリッサムのことである。


「寂しがり屋なのね。他の子とは違う場所にいたから、いじけちゃったのよ」


 ミサキはそう言うと、アリッサムの隣に小さく穴を掘り、そこに植えてあげた。


「これで、何日かしたら機嫌が直るわね」


 裕也は大窓の手前にある縁側にコンビニ袋を置き、弁当を温めに台所へ入った。


 十月の中旬であるにも関わらず、まだ三十度近い残暑が続いている。流石にお腹は空かなくても喉は乾いているだろう。大窓がある和室に戻り、袋から麦茶を取り出した。


「はい、これ。まだ暑いな……長袖で大丈夫か?」


「ありがとう。この服お気に入りだから。」


 ミサキは縁側に腰を下ろし、物悲し気に空を見つめていた。


「こうやって空を眺めてるとね、たまにお養母かあさんたちのことを思い出すの。死んじゃったら、『心』はどこに行くのかなって……。心って体と違って目に見えないから、気持ちを伝えることもできないでしょう? きっと、天国も見えないのかな……。見えないものって、本当に『存在』してるのかな」


「なんか、哲学的だな」


 裕也は彼女の左隣に腰を下ろし、一緒になって空を見ていた。


 死生観は宗教により異なる。例えばキリスト教では、死者の魂は地上と天界の狭間に落ち、世界が終わる頃に甦らされ、最後の審判で天国に昇るか地獄に墜ちるか決まるのだという。また、仏教では輪廻転生が信じられており、四十九日の裁判にかけられた後、六道のいずれかの世界に生まれ変わる。そして、徳を積むことで極楽浄土に行ける権利が与えられるという。


 六道の中でも、生前強欲であり、人を貶めたような罪深き者は人間界よりも下層に堕とされる。キリスト教にも地獄があるように、生前に何らかの『罪』を犯した者は、どの宗教でも死後も安らかになることを赦されず、永遠の苦しみを与え続けられるという。


 しかし、所詮それらは実際に存在する話ではなく、童話と同じ創作に過ぎない。「死人に口なし」という諺があるように、死者が死後の世界を教えてくれる訳ではない。死んだ後のことは、死んだ者にしか分からないのだ。裕也は、そんな生者に対する脅しのような話は全く信じていなかった。何らかの『神』を信じているわけでもなく、死ねば燃やされただの灰になり、苦しみも安らぎも感じない無の境地に向かうだけだ。


「私は、死んでも『心』は残っていると信じているわ。そう、信じている・・・・・だけよ」


 『信じている』という言葉に含みを持たせ、柔らかな笑みを見せると再び立ち上がり、軍手を手に被せ残っていた雑草を毟り始めた。


「カコンッ」


 傍らで、重量のない硬いものが落ちるような音が響いた。音の方向に目をやると、先程ミサキにあげた麦茶のボトルが、空になって縁側に転がっていた。今まで彼女と話していて、一口も飲むような素振りは見ていない。ミサキ以外の誰かがいたわけでもない。それを見た瞬間、今まで暑かった体が芯まで冷えていくのを感じた。


『物が無くなる』


 厳密に言えば、中に入っていた液体、お茶が消えた。しかも一瞬で。そのボトルは、ミサキを挟んだ右側に置かれていたはずのものだ。中の液体が無くなって空になり軽くなったため、吹き付けてきた風で後ろに転がったのだろう。


 恐る恐るボトルに手を掛けた。もし誰かが飲んでいたのであれば、キャップのブリッジが切れているはずだ。


 ボトルを持った手を、ゆっくりと目に近づける。ブリッジは下がっておらず、キャップの淵に接していた。気のせいだろう。たまに切れていても上がりっぱなしのこともある。試しにキャップの部分を持って、軽く捻ってみる。


「ピリピリッ」


 キャップからブリッジが外れる時の音だ。飲み初めに封を開けるあの音。つまり、ボトルは開封されないまま、中身だけが全て無くなっていたのだ。


「うっ……」


 ——カランコロンッ


 触っているだけでも怖くなり、つい寝室の奥に投げ込んでしまった。その音に驚いたのか、俯いて雑草取りに夢中になっていたミサキが勢い良く振り向いて裕也の方を見た。


「大丈夫?」


「ああ……手が滑って」


 怪現象が起きた、なんていうことは当然言えず、適当に誤魔化すことしかできなかった。


「ここ、あまり除草剤は撒かないほうがいいわ。土が駄目になっちゃうかも。この子たちにも影響が出るかもしれない」


「ああ、そうだな……」


 その返事に感情は乗っていなかった。


 裕也はもう一度、押し入れの前に転がったボトルを見た。幻覚でも何でもない、確かに空のペットボトルがそこにある。近くにいるのも嫌になり、軍手を持つと立ち上がって逃げるように庭へ出て行った。


「コトッ」


 誰も見ていないところで、ボトルが独りでに立ち上がる。裕也はその後、その空のペットボトルを見ることはなかった。

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