二籠 〜ふたごもり〜

風丘 春稀

第一章 塊

 人の『意識』は亡くなった後、何処へ行くのだろうか。天国や地獄という場所に連れて行かれるのだろうか。


 肉体が荼毘に付され、残された魂は神の審判にかけられ、許された者だけが辿り着ける楽園。そんなものは御伽話と同じ、死を畏怖する人間の妄想に過ぎない。


 そう思っても、ある一瞬の出来事でその存在を信じてしまいそうになる。誰かの魂が、平穏で、安息の地にあることを信じようとする心が何処かにある。


 あの日、彼女を抱き上げた時に手に付いた鮮血の感触が、頭から離れない。生命を維持するものが段々と外へ流れ出ていき、地面に溢れ出て、体から温もりを奪っていく。


(これが、『死』か)


 幼いながら身近な死を経験した少年は、死の恐怖と共に、生きることの絶望を味わっていた。いずれ自分も、同じ結末を歩むことになる。結局そうなるなら、生きることに何の意味があるのだ。


 少年は、初めて自分の命を憎んだ。その瞬間、彼の中の何かが蠢き、殻を破って這い出て来るのを感じた。それは、胸と頸を通じて頭に登った。


 幾年経っても、それはまだ彼の頭の中にいた。永遠に消えない、あの時の記憶と共に。


 それは、少年の頭に語りかける。


「死が怖いのか? 生きるのが怖いのか?」


 少年はすぐに答えられなかった。


「生きていたくもないし、死にたくもない」


 それが、彼の精一杯考えて導き出された答えであった。ただ、死があるのに生きる理由が分からないだけであった。その時、それは彼にこう提案した。


「死が怖いのであれば、それを追求することだ。死の世界を知れば、死を恐れることもなくなる」


 彼はその言葉を原動力にして生きてきた。


 少年は成長し、死を追求するために脳科学者となった。脳は、この世には存在しない、見えない世界を見ることができる神秘的な構造をしていたからだ。


 この研究をしていると、何人も不可思議な現象に遭遇している人たちと出会う。中には、既に亡くなっている人と現実世界で出会ったという興味深い話も聞く。一般に、それは『霊』と呼ばれるものである。


 霊の存在を信じるのは科学的ではない。だが、彼はその存在が死後の世界の謎を解き明かす唯一の鍵になると信じていた。


 一方で、そんな彼を嘲笑い、変人と揶揄する者もいた。霊など存在しない、脳が生み出した幻に過ぎない、と。


 確かに、一部は脳機能の疾病が起因となって、霊現象と良く似た症状を起こすことがある。統合失調症や後部大脳皮質萎縮症、脳腫瘍や出血により視覚に異常が起きるものである。ところが、彼の元へやってくる相談者は皆、脳機能に異常はなく健康そのものであった。


 稀に霊とは異なる奇妙な体験をする相談者もいた。


ある女性は夢の中で脱線事故に巻き込まれた。彼女はその一週間後に出張で遠征する予定があった。当日、目的の電車を待っていたホームで違和感を覚え、その場面が一週間前に見た夢と重なっていることに気づいた。彼女は何気なく電車を一本遅らせたところ、その数分後にアナウンスが流れ、事故が起きたことを知ったのだ。もしあの夢を見なければ、彼女は今やこの世に存在しない。


 この現象は、いわゆる『予知夢』と呼ばれるものだ。何故、脳がこのような映像を夢で見せてくるのか。まるで、脳が一つの独立した生命体で、宿主の未来を予知し警告してくれる、良い意味での寄生体のように思える。


 あの時、自分にもこのような力があれば、彼女の死を防げたのかもしれない。最悪自分が死んで、彼女が大人になる未来があったのかもしれない。そのような想像が彼の頭をよぎると、歯止めが利かなくなる。


 彼は、その謎めいた物体である『脳』に強い興味を注がれていた。また、脳を知ることで、頭の中にいる何かの正体が分かるのではないかと期待を寄せていた。


 時折、その何かが彼の頭を支配しようとする。それはいつも、脳を深く追求したいという欲望が強くなった時に現れる。


(人の頭の中を見たい)


 彼の理性に浸透していくこの欲求の塊は、ある時はとても危険な思考のように感じていた。その都度、彼は頭を押さえ、滲み出る感情を押さえなければならなかった。そして、何度も自省する度に、この頭の中の何かを取り去る方法を考えていた。


 生きるための目標を与えてくれた存在が、こんなにも煩わしくなるとは思っていなかった。欲求に負けそうになると、彼は研究所から飛び出し、気分を変えに散歩に行くのが日課になっていた。


 最近では欲求の強弱が曖昧になり、集中して研究に没頭できる時間が短くなっていた。日を追う毎に散歩の回数が増え、締め切りが迫る原稿のことなど、頭の中の塊と比べれば大した問題ではなかった。


 今日も、彼は研究所から抜け出し、車のエンジンをかけ、二キロほど離れた公園へ足を運んでいた。いつも集中できなくなる時は、この公園か、その近くのカフェに足を運ぶことがある。


そこでいつもベンチに座り、世間話に花を咲かせる高齢層や、遊具で遊ぶ親子を見て、自分もこの日常を生きるただの人間であることを再確認する。


(大丈夫……俺はまともだ)


 何度も何度も自分にそう言い聞かせる。


 震える手を祈るような形をして組み、脚を軽く広げ、肘を膝に付け、額をその組まれた手の上に乗せる。上半身は前のめりになり、視線は開かれた彼の股間の辺りを見つめる。目を瞑り、柔らかい西風が頬を撫でる感触に集中した。耳を凝らすと、地面に無造作に散らばる、水分を失った枯れ葉たちが「カラカラ」と音を立てて、風が吹く方向へ飛んでいくのが分かる。


 その音と共に「トス、トス」と鈍い音が混ざるのが聞こえた。何か重たいものが土を踏みしめる。それは、人の足音だった。


 その足音は、彼の目の前で止まったかと思いきや方向転換し近づいてきた。徐々にその音が大きくなると、今度は荒い息遣いも混ざり始めた。その息の漏れ具合と、風に乗って漂う柔軟剤の匂いから、目の前にいるのが女性であることはすぐに分かった。


 だが、彼はすぐに顔を上げる気はなかった。今は誰にも自分の時間を搾取されたくなかったからだ。例え、目の前にいるのが見知れた友人であったとしても。


「先生、森永先生! もう、またこんな所にいたんですか?」


 張りのある高い声が彼の鼓膜を突く。その時、不思議と彼を悩ませていた塊が小さく、弱くなったことに気が付いた。その隙を見計らって、顔を上げる。


「ああ、すまない、真琴……。なかなか集中できなくてね。あ、例の原稿、もう少し待ってくれ。体調が思わしくないんだ」


「いい加減診てもらった方がいいですよ。最近、出かける頻度が増えてるし……。先生、ちゃんと寝れてますか?」


 茶色く染めたショートヘアを耳にかけた小柄な女性が、眉を垂らして心配そうに彼の顔を見つめた。真琴は彼の傍らに座り込むと「はぁ」と深いため息をつき、足元に転がっている石ころを、黒ブーツを履いた脚で弄り始めた。


「昔、教えてくれましたよね。自分の中に、もう一人別の自分がいるって。『それ』は、先生にどんなことを教えてくれるんですか?」


 言葉に詰まった。流石に狂行を促してくる存在だとは口が裂けても言えない。


「『頭の中を見ろ』とだけ言ってくる、そいつは……。でも、どういうことだか分からない。それだけ言って消えていくんだ」


 彼は遠まわしに答えた。だが、彼の言った言葉の中に嘘は一つもない。その言葉で真琴がどんな反応をするのか、それだけが不安であった。


「ふ~ん。『頭の中を見ろ』ですか……。まぁ、今はCTスキャンとか色々技術が進歩していますから、頭の中を見るぐらい先生は簡単にできるでしょう? 何か問題でもあるんですか?」


「ん? ああ、まあな」 


「何があったの? 話してみて」


 息を吐く間もなく真琴は疑問を投げかけてくる。時々垣間見せる彼女の歯に衣着せぬ態度にうんざりしていた。真琴も呆れたように彼から視線を逸らし、夕陽に染まりつつある空を見上げた。


 橋田真琴は、同じ大学の理工学部を専攻していた同期生であった。だが、成績は彼のほうが上手。彼女は、そんな彼に対して尊敬の念を抱いているのか、話す際は決まって敬語を使っていた。飽きてくると途中で言葉遣いが荒れることがあるが、それは、彼女が本気で怒っているか、真剣に物事を考えている時である。


 今、真琴は本気で彼を心配していたのだ。 


 彼女の様子を見ると、彼のはっきりしない物言いに膨れているようだった。


「今は詳しく説明できないんだ。でも、心配してくれてありがとう」


「いつもそればっかり……」


 彼女は眉を顰め、顔を背けた。


「ちゃんと帰ってきてくださいよ?」


 真琴は彼の顔を見ることなく立ち上がると、いつもより低い声音で話した。高ぶる感情を抑えているのか、ベージュのロングスカートの脇を握りしめ拳を作っていた。


「何かあったら、私……」


 噴水の向こう側にある景色を見つめたままそう言い捨てると、そそくさと去って行ってしまった。


「ふっ。何だよ、あいつ……」


 心配するくせにどこか素っ気ない態度が可笑しく感じてしまい、軽く吹いてしまった。


(自分に素直になれないのに、俺に素直になれなんて良く言えたものだな)


 いつの間にか塊は影を潜め、やっと作成途中の原稿のことが頭をよぎった。時刻は午後四時半。締め切りまであと二日。今帰って超特急で仕上げれば、ギリギリ間に合う。


 辺りを見回すと、既に遊んでいた子供たちも、立ち話をしていた老人たちもいなくなっていた。それまで気づかなかった、公衆トイレの傍らに煌々と光を放つ自販機に目をやった。


(缶コーヒーでも買うか)


 重くなっていた体は元に戻り、駆け足で自販機に立ち寄る。陽が完全に暮れる前に研究所に戻らなければならない。ブラックコーヒーを手に入れると、駐車場の方に歩きながら缶を開け、口の中に流し込む。程よく砂糖の効いた香ばしい液体が喉を潤し、散漫していた意識が整い始める。


 肉体があるからこそ感じられる味であることは知っていた。肉体がなくなれば、このコーヒーの味も、風に漂う草花の匂いも、恋焦がれる彼女の香りも二度と経験できなくなるのだろうか。そう考えると、『死』はとてつもなく無慈悲で邪悪なものに見える。


 車に乗り、深く深呼吸をしながら、研究所に戻ってからのことを考える。また、いつあの塊が横やりしてくるか予想できない。


 頭の中から消えている間、その塊はどこにいるのだろうか。考えてはいけないことなのは分かっている。だが、ふとした瞬間、その塊がいなくなっていることに気がつくと、僅かながら不安を覚えるのだ。


 彼にとって、その塊は頭の中の同居人のように考えていた。常に猟奇的な考えを運んでくる訳ではないからだ。


 本来は酷く臆病で、行動力と探求心が必要な研究者には向かない性格であった。そんな彼を、今やトップクラスの脳の専門家に仕立て上げたのは、紛れもなくその塊の恩恵であった。もし、それが存在しなければ、自分より真琴のような知的好奇心に溢れた秀才のほうがよっぽど優れている。


 塊が去った後に顔を覗かせたのは悲愴感であった。彼は自分自身を自虐的に考える癖があった。だが、それは決して表に向けることはなかった。特に、真琴の前では。


 真琴と彼は、一見すると正反対の感覚を持っている。それにも拘わらず、約十年もの付き合いを続けているなど、奇跡としか言いようがない。これまでに大きなすれ違いがなかったのが幸いである。


 もし、自分の全てを曝け出してしまった時には、彼女に愛想尽かされてしまうだろう。この不安定な精神状態の中で、それだけは何としても避けたかった。本当の意味で独りになってしまったら、万が一のことがあれば、自分を止められる人間が周りにいなくなる。


 常に孤独と狂気が隣り合わせ。大切なものを失ったあの日から、彼に平穏な日常は二度とやってくることはなかった。


 常に聞こえて来るのは、彼に対する罵詈雑言。それが避けようもない事故であったことは皆知っていた。やり場のない感情のはけ口にするには、彼が最適であったのだ。尤も、その現場に居合わせた張本人であったのだから。


 駐車場を出てしばらく走らせると、道路を覆っていた林木が無くなり開けた場所から黄金に染まる田園が見渡せる。研究所は山の中間部にある。山といっても標高五百メートル以下の緩やかな山で、晴れている日は研究所の窓から多くの登山客を見かけるほどだ。


 外部から見ると交通が不便のように思われるが、何も問題なかった。ここが彼にとって理想的な居住地であったのだ。


 子供の頃は高層マンションや雑居ビルが建ち並ぶ窮屈な都会で暮らしていた。母親が地方出身で喘息持ちであったが、父親の会社が都内にあったため、生活のこともあり文句は言えなかった。そんな時、母親の発作が酷くなり、そこで暮らすことが困難になった。


 母親は四つになる彼を連れて実家に戻った。周りを見渡すと、そこには日光を遮るビルや、異臭を撒き散らす工場ではなく、自然と一体になった田畑が広がっていた。


 幼いながら、彼はこの光景が『世界の本来あるべき姿』のように感じていた。理屈ではなく、感覚的にそう思わせられたのだ。


 自然は何を言うでもなく、ただそこに堂々と存在している。ただそこにあって、断りもなく勝手に入ってきた人間でさえも受け入れてくれる。人間が自然の手足である木を切り刻んでも、肌である土地を固めてコンクリートの塊を建てても、怒ることなく、何も言わずに黙っている。人間が生まれる遥か昔から存在していたものを壊されて、何故、何も言わずにいられるのだろうか。幼い彼は不思議に思っていた。


 本来あったものが壊され、その上から異質なものが覆い被さる。時代はそうやって変わっていくのだろうか。もう簡単に元に戻すことはできないだろう。それでも人間は、己の生き易さを求めて、欲望のままに自然の体を少しずつ削り取っていく。


 今、彼の頭の中で起きていることはそれと似ている。少しずつ、別の意識によって取って代わられる。普通なら蔑まされるべきものを、孤独感を埋めるために受け入れてしまう。


 次から次へと湧いて出て来る負の思考を遮るために、彼はオーディオに手をかける。流れていたのはFMラジオ。番組の中で明るいJ‐POPが流れている。その瞬間だけは、陰鬱な空気が和んだような気がした。

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