n回目の願い――代償なんて、聞いてない

@manaka_yu

第1話 一度だけの願い

 太陽に手をかざすように、大木は右手を掲げた。その手にスポットライトの熱を受けながら、渾身の声を張り上げる。


「俺は……絶対に諦めない!どんなに時間がかかっても、絶対にあそこへたどり着く!」


 けれど大木の瞳は、彼方を見つめてはいなかった。意識が目の前の審査員席に囚われている。パイプ椅子に座った審査員たちの視線が、音もなく大木を突き刺していた。

 大木が手のひらを握りしめると、汗でじっとりと濡れていた。


「どうしてあんなド新人が受かるんだよ」


 薄暗いバーの片隅で、大木はグラスをあおって酒を飲み干した。胸がかっと熱くなったのは、きっと酒のせいだけではない。どす黒い何かが、大木の胸の内を満たしていく。


「どう考えても俺のほうが主人公の情熱を表現できてた。見る目ないよ、審査員のやつら」


 勢いカウンターに置いたスマートフォンの画面をタップすると、とある演劇のキャストが決まったというニュース記事が下へ流されていった。大木がオーディションを受けた劇だ。

 もう一度グラスを持つと、溶けかけの氷が揺れる。カラン、と虚しい音がした。


「マスター、もう一杯!」

「ちょっと、飲み過ぎじゃない?」


 聖火ランナーのようにグラスを掲げた大木の腕を、隣の明莉がそっと押さえた。


「望はほんとに頑張ってる。この間の劇もすごく良かったよ。真に迫る演技っていうか……」

「端役だけどな」


 恋人の優しさを振り払うように、大木は吐き捨てる。


「もう三十を超えちまった。後から来た奴らのほうがいい思いをしてるってのによ!」


 明莉は小さくため息をつきながら、そっと手を引いた。何かを言いかけて、結局そのまま俯く。恋人のそんな様子をまったく気にかける風でもなく、大木はマスターが差し出したグラスに手を伸ばした。氷の表面で薄明りが揺らめく。本当はもっと、輝いているはずなのに。


「どいつもこいつも見る目がないんだよ」

「そのとおり!認められるべきでないものが認められ、認められるべきものが認められない。なんと理不尽な世の中でしょうか!」


 驚いた大木と明莉が振り向くと、髪もスーツもワイシャツも、すべてが暗闇に染まったような黒づくめの男が、にこやかに会釈していた。


「なんだ、あんたは?」


 公共の場所とはいえ聞き耳を立てられたようで、大木はいい気分はしなかった。


「おっと、失礼しました。私、こういう者です」


 男の差し出した名刺には、黒地に白抜きで、「黒土タカオ」という名前がでかでかと書かれていた。左上に『願いを叶える仕事』という耳障りのよい言葉が、無遠慮に居座っている。


「願いを叶える仕事?」

「そのとおり。私にご依頼をいただければ、一回だけ、あなたの願いを叶えて差し上げましょう」

「なんか怪しくない?」


 明莉は声をひそめ、大木のシャツの裾をそっと引いた。うつむき加減に、それでもしっかりと大木を見つめている。大木は一瞬だけ明莉に顔を傾け、すぐに黒土という男に向き直った。


「本当に願いを叶えてくれるのか?」

「あまりに稀有壮大な望みでなければ、ある程度のことはご期待に添えるかと。この世のすべてを手に入れたい、などとおっしゃるといくら何でも困りますがね」


 黒土は本気とも冗談ともつかぬ顔で、さらりと言ってのけた。


「ある程度って?」

「あなたは俳優として大成したいそうですね。平たく言えば、スターになりたい」


 頷く大木に、黒土は優しく語りかける。


「いきなりあなたを大スターに押し上げることはできかねます。しかしながら、あなたの才能を世に出すことならできるでしょう。ただし、一度だけです。世に出たあとは、あなた次第です」


 突然転がり込んできたチャンスに、大木の口元がにんまりと歪む。


「才能を世に出す、か……」

「ちょっと、望。そんなうまい話があるわけ……」


 明莉が半ば呆れながら制止する。大木は「きっかけをつかむだけだから」と首を振った。


「知ってもらえれば、後から必ず評価はついてくる」

「そうかもしれないけど、こんな方法で……」


 明莉はカウンターのグラスに目を落とした。酒は、あまり減っていない。大木は出方を伺うような目で黒土を見る。


「……で、いくらなんだ?」


 黒土は目をにゅうっと細めて微笑んだ。


「ははは、たった一度の善行にお代はいただきませんよ。これは私の生業ですが、半ば趣味でもありますから」

「趣味?」


 変わってるな、という大木の心の声が漏れ聞こえたのか、黒土は「これほど胸のすく仕事はありません」と胸を張った。


「ねえ、やめたほうがいいって。今までがんばってきたのに……」


 精一杯抗議する明莉を、大木は一瞥した。


「その結果がこれじゃ、納得いかないだろ。お前も、俺も」


 明莉の瞳が何かを伝えてくる前に、大木は目を背けた。


「お願いするよ、黒土さん」

「では、契約成立ということで」


 大木は期待に満ちた顔をしながら、黒土は微笑みを顔に張りつけたまま、がっしりと握手を交わした。

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