不器用おじさんの異世界スローライフ〜早期退職後、なりゆきで便利屋やることになりました〜

ざつ@🏆=カクヨムコン参加作品!!

第1話 早期退職と異世界への招待

現代日本。




高層建築物が林立するオフィス街の一角において、田中健一は58年間の人生における転換点に直面していた。




彼の視界に映るのは、鉛色の空と、無機質なコンクリートの壁面である。


雑踏の喧騒は、彼の心に到達することなく、ただ通り過ぎていく。




まるで、彼自身の存在がこの都市の風景から切り離されているかのように。






彼の執務机は、几帳面な性格を反映するかのように完璧に整理整頓され、書類は寸分の狂いもなく整然とファイリングされていた。




誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまで職務に没頭し、過誤なく業務を遂行してきた彼の会社員生活は、定年まで残り3日となっていた。






本来であれば、この年齢で定年を迎えるのは一般的なことではなかったが、健一は数年前、会社の早期退職優遇制度に応募していた。


長年の激務による疲弊、そして何よりも、完璧を追求し続けた結果として生じた心の空虚感が、彼をその決断へと駆り立てたのである。




「残り3日…」。


健一は心中で静かに呟いた。


その言葉は、長きにわたる重労働からの解放を意味する一方で、同時に深い疲労と漠然とした空虚感を滲ませていた。




「残り3日で、私の会社員生活は終焉を迎える」。


彼の独白は、過去への深い内省へと誘う。




「完璧を目指した。誰からも異論を呈されることのないよう、過失なく、正確に。それが私の信じる『正しさ』であった」


彼の脳裏には、若かりし頃の自身の姿が鮮明に蘇る。


常に正しい判断を下し、完璧な結果を出すことに執着していた日々。




しかし、その信念は、彼に心の平穏をもたらすことはなかった。




むしろ、その完璧主義故に、周囲との間に目に見えない障壁を築き、人間関係に軋轢を生じさせ、彼自身の心を深く疲弊させてきたのである。




彼にとって、仕事こそが自己の存在意義であり、それ以外の人生設計はほとんど考慮されてこなかった。


定年を目前に控えた今、仕事という拠り所を失うことへの漠然とした不安が、彼の心を覆い始めていた。




数年前に離婚した元妻の言葉が、今も彼の心を締め付けていた。




「健一さんは常に正しいわ。しかし、正しいだけでは、生きていけないのよ」


その言葉の真意が、今になって重く響く。




彼女の諦めたような声、そして寂しげな眼差しが、まるで昨日のことのように思い出された。


あの時、もっと柔軟であれば、何か違った未来があったのかもしれない、と。


仕事に没頭するあまり、家庭生活や自身の感情に向き合うことを疎かにしてきた結果が、この離婚であった。


彼は、自身の「真面目すぎた」性格が、どれほど多くのものを犠牲にしてきたかを痛感していた。




企業の若手社員らが、スマートフォンを凝視しながら疲弊した面持ちで帰路に就く姿を目にする。


彼らの背中には、健一がかつて背負っていたのと同様の、見えない重圧がのしかかっているように見えた。




「彼らもまた、完璧を要求され、成長を強制され、失敗を恐れているのであろう。まるで過去の私を見ているようだ…」


健一は、自身のみならず、現代社会に生きる多くの人々が抱える疲弊を肌で感じ取っていた。


彼らの表情には、かつての総務部での自分自身の苦悩が重なって見えた。


常に効率と正確さを求められ、少しでも時間がかかれば上司に睨まれ、同僚は彼の完璧主義ゆえに近寄りがたかったであろう。




そんな日々が、彼の心に深い影を落としていた。


早期退職を選んだのは、この終わりのない競争と疲弊から逃れるためでもあったが、その先に何があるのか、具体的なビジョンは全く描けていなかった。




職務を終えた健一は、コンビニエンスストアで簡素な弁当を購入し、一人暮らしのマンションへ帰宅した。


室内も完璧に整理整頓されていたが、どこか味気ない。


生活感のない空間に、彼の心の空虚さがそのまま映し出されているようであった。




そのような彼の唯一の安らぎは、ベランダで栽培しているミニトマトであった。


青々とした葉、そして赤く色づき始めた小さな実。


この小さな生命に触れる時のみ、彼の心は穏やかになれた。




彼の「真面目さ」が、唯一報われた場所のように思われたのである。


収穫したミニトマトを口にすると、その甘酸っぱさが、彼の疲れた心に微かな潤いを与えた。

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