まどろみは、いずこに通ずや

oira666

第一夜 夢より深く

わたしは、一年以上、眠っていない。


正確には──眠ったことはある。でも、朝になってもまったく“休まった感じ”がない。だから、医者はこう言う。「眠れていないと感じているだけです」と。


それなら、どうしてわたしの身体は、毎日少しずつ壊れていくのだろう?


 


夜になると、心臓がうるさい。まぶたは重いのに、意識だけが過剰に醒めている。部屋の隅のシミ、時計の秒針、空調の鳴り──すべてが耳に刺さるように響く。


「……また、だ」


ベッドの上で天井を見つめながら、薬の瓶に手を伸ばす。もう処方の限度なんて、とっくに超えている。


効かない。夢を見ない。ただ、生き延びているだけの夜。


そんなある日、一本の連絡が届いた。


 


──妹さんと、会ってみたくはありませんか?


 


送り主は、大学の講義で一度だけ話したことがある助教だった。名前もろくに覚えていないが、どうやら向こうは、わたしの話を覚えていたらしい。


妹は、五年前に亡くなった。川で溺れた。誰のせいでもなかった。けれど、あの日、わたしはほんの一瞬、目を離した。


 


「これは、〈夢投影剤〉と呼ばれるものです」


助教はそう言って、小さなガラス瓶を机に置いた。濃い青の液体が、冷たい光を反射している。


「脳波の位相を意図的にずらすことで、夢の“投影先”を変える薬です。副作用はあります。ですが──この薬を使えば、“あちら側”にいる人と、夢で会える可能性がある」


「……“あちら側”?」


「死者の記憶です」


 


胡散臭い話だと思った。けれど、わたしはその夜、それを飲んだ。


青い液体は、口に含んだ瞬間だけ甘くて、すぐに何かに引きずられるような感覚が襲ってきた。


そして──


 


わたしは、夢の中で、妹に会った。


 


川辺だった。あの日と同じ、蒸し暑い午後。蝉の声、濁った水、草の匂い。妹は制服のまま、石の上に座っていた。


「……お姉ちゃん?」


その声は、記憶のままの高さと温度を持っていた。妹は笑った。驚いたような、でも嬉しそうな、少し泣きそうな顔で。


「来てくれたんだ」


「……どうして、ここに?」


「うーん。あたしも、よくわかんない。でも、ずっとここにいた。呼んでたの。ずっと、ね」


妹の後ろで、川がゆるやかに流れていた。あの日と同じ景色。でも、空気の重さも、匂いの温度も、どこか現実とは違っていた。


「この夢……本当に、わたしの?」


「ううん。半分こ。お姉ちゃんと、あたしの」


 


その夢は、朝まで続いた。目が覚めたとき、わたしは泣いていた。


久しぶりに、朝が美しかった。


でも、それは──始まりだった。


 


 


夢は、それからも続いた。


薬を飲めば、必ず妹に会えた。彼女は毎晩、川辺の石に座って、わたしを待っていた。


 


──今日はね、カラスが声かけてきたの。

──川の流れ、ちょっと早くなってる。なんか変だよね。

──お姉ちゃん、眠い? 顔色わるいよ。


 


話すことは、たわいもない。でも、それが嬉しかった。まるで、失った夏の続きをやり直しているようだった。夢の中では、妹は生きていて、わたしも“あの日”をまだ迎えていなかった。


夢の中にいるあいだだけ、わたしはわたしを許せた。


 


現実では、会話が曖昧になり、研究の進捗は止まり、身体はだるく、まぶたの裏に川辺の情景が滲んだ。


それでも、かまわなかった。夢の中は、あまりにも幸福だったから。


 


「夢投影剤は、死者の記憶と接続するものではありませんよ」


再び連絡をくれた助教に、わたしは訴えた。「妹に会えた」と。


だが彼は、まっすぐに否定した。


「これは“あなたが望むイメージ”を、自己強化的に投影する作用しか持ちません。あなたの脳が作り出した像です。ご理解いただけますね?」


「……でも、妹は、成長していました。現実にはいないはずの年齢で。声も、顔も。あんなもの、わたしには想像できない」


「それは、あなたが“そうであってほしい”と望んだからです」


 


わたしは、返事ができなかった。


本当に、そうなのだろうか? 彼女はただの“願望”だったのか?


そうかもしれない。けれど、夢の中の妹は、どこか──隠し事をしているような目をするようになっていた。


ある夜、妹がこんなことを言った。


 


「ねえ、お姉ちゃん。来週からは、もう来ない方がいいかも」


「……どうして?」


「よくわかんないけど、向こうで誰かが怒ってる。あたしがこっちにいるの、よくないって」


「向こう?」


「わたしも、あんまり深くまで来れないの。だから……あんまり引っぱらないで」


 


──その意味は、すぐにわかった。


 


翌朝、わたしは目を覚ましたのに、身体が動かなかった。

“金縛り”とは違う。目は開いているのに、全身が沈んでいるような感覚だった。


まぶたの裏で、水音がした。耳の奥で、草を踏む足音が近づいてくる。


夢の中の気配が、現実を侵食してきている──そう感じた。


 


わたしは“眠ったまま”、その何かに囚われていた。


 


──こんなに来ておいて、いまさら戻れると思うの?


 


妹ではない、もうひとりの“誰か”がそこにいた。

顔は見えなかった。ただ、濡れた髪と、足元から滴る泥のにおいだけが、異様にリアルだった。


 


それは、“夢の川”の向こう岸から来たものだった。


 


目が覚めたとき、冷や汗で全身がびっしょりだった。


ベッドの脇では、薬の瓶が倒れていた。中身は、もうなかった。


それでも──夢は終わらなかった。


薬がなくても、川辺に立つことができた。

夢のほうが、わたしを迎えに来るようになっていた。


 


妹は、泣いていた。


「お姉ちゃん、もう、帰ってよ……。ちゃんと、朝に起きてよ……。わたし、ここで待ってるから……ずっとここにいるから……」


 


わたしは、何も言えなかった。


もう、夢の中のほうが現実より“安らか”に思えていたから。


 


その夜、研究室の隅で倒れているところを、同期に発見された。

軽い意識障害。長期の休養を勧められた。


医師はこう言った。


「あなたは、生きながらにして、死者に会おうとしたんです。

 脳は限界を超えて、その願いを“叶えようとした”だけです」


 


最後に見た夢の中で、妹はわたしに向かって言った。


 


「お姉ちゃん。ちゃんと、生きて。

 死んだ人のことなんか、もういいから」


 


その声だけが、現実のもののように感じられた。


わたしは、ようやく泣いた。


 


それから、眠れるようになったわけではない。

でも、夜が来るのが、前ほど怖くはなくなった。


妹の姿は、もう現れない。


けれど、夢の奥底で、わたしはまだ──

あの川辺の草の匂いを、ときどき思い出す。


 


 


──“夢より深く”、

   わたしたちはまだ、眠れずにいる。

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