煙霧のために習作

柄谷ゆきと

ドキュメント01

 僕は石井いしい彗星すいせい。弟の鐵鋼てっこうが脳卒中で突然死んでから、弟が枕元に立つようになった。

 僕は笑いながら彼を見る。どうしてかは分からないけど、まるでいつも水の中にいるみたいな気持ちでいっぱい。

「それってどんな気分なん?」

 と云ったのはクラスメイトの不知火しらぬいで、名字は誰も知らないし、彼女の両親も知らないらしい。

「いや、親と同じじゃないん?」と僕。

「知らんよ。知らんもんは知らんもん」

「それもそっか」

 確かにそうかもしれないし、あるいはそうじゃないかもしれないけど、とりあえず僕は関係のない事柄には目を開かない。

「でさ。どんな気分?」

「え?」

「あのー……弟? が夢に出てくるんやろ」

「あー」

 僕は考える。ちょっとだけ、考えるけど、もし夢に出てくるんだったらそれは、僕自身が見ているただの夢──あるいは願望? なんだろうか?

「分からん」と僕は答えた。

「自分の気分やろ」

 と彼女はなぜか責めるように語気を強め、いきなり僕の手の甲に爪を立てる。

「……はあ? 何……?」

 と思う間もなく、皮やら肉やらを突き破ってたちまち血が溢れてくる。

「マジで何?」

「いや。なんとなくやけど」と彼女。

「ちゃんと答えてほしいんよ」

「……うん、それは分かるけど……」

 そして次の日、不知火は交通事故で亡くなる。

 なぜかは分からないし、まあただの事故なら偶然だろうと思う。

 その日は冬も近いのに暖かい日だった。僕の大好きな天気、晴れ。こんな日に死んだんなら、彼女も満足しているだろうと勝手に思う。

「ほんまに勝手やね」と彼女は云う。

「そうかもね」と僕は答える。

 そう答える以外、何を云えばいい? ただ分からない。

「実は生きてた、とか?」

 僕が問うと、彼女は首を振る。僕には、縦に振っているのか横に振っているのか、全然見分けることができなかった。

「僕も死んだんか?」

「そんなわけないやんか」

「なんでよ。分からんくね?」

「……その傷」

 と云って、彼女は僕の手の甲を指差す。白く伸びたその指は、どこか透き通っているような気がしなくもないけど、僕は幻覚をよく目にするから分からない。

 現実も夢も幻も、すべてが鳥の見る夢なのかもしれないし、僕はそれを否定できない。

「傷……」

 そうだけど、痛みはないよ。と僕は云った。

「ほんまに?」

「ほんとに」

「そっか」

「うん」と答える。

 そんな会話の後、僕らは普通に授業を受け、数学を担当している神本先生は黒人文化についてやや暑苦しく語った。

 どんなふうに暑苦しかったかはすぐに忘れてしまったけど、「暑苦しい」と僕がそのとき思ったことは確実だった。

「不知火はどう思った?」

 彼女は椅子に座ったまま、手足を一切動かさずに床を滑っていく。そんなの普通じゃないと思っていたら、ホモの松下幸之助がこう云った。

「神本はさー、たぶん俺と同じやと思う」

「同じ?」

「おん。つまりな、まず俺はホモやろ?」

「うん。知らんけどそうなんやない」

「だからあいつもホモなんよ」

 僕には純粋に分からなかった。意味不明としかいえず、もうこれ以上ホモとは話してられないと感じて僕は逃げる。

 あらゆる角や壁に激突しながら自由に滑り続けていた不知火は、やがて僕の目の前を通り過ぎて松下の背中に思い切りぶつかり停止する。

「なんや! 死ぬわ!」と松下。

「うるさい。ホモ野郎」

 と彼女は云い、ホモに人権なんていらんわ、とやや過激な言葉を残して風のように教室から去っていった。もちろん小走りで。

「マジで何なん……」

 松下はそれほど腹を立てている様子ではなかったけど、「マジで腹立つわ……」と云ったからなんだか面白くて僕は笑う。

「えへへ」

「…………」

 彼は黙る。きっと僕の笑い声だか笑い方だかが気味悪かったんだろう。

 手の甲の傷はいずれ消え去ると思うけど、ずっと残しておきたい気持ちもあって、そんな自分を気持ち悪いと思った。

 センチメンタルな心で、傷口をペロペロ舐め回していると、クラスメイトたちからの冷たい視線に気がつく。

「そういや、ここ教室やったな!」

 と叫んでみる。その試みは阿呆らしく、僕をじっと見ていた彼らは次々にペンケースやら教科書やらノートやら黒板消しやら上履きやらリュックやらカバンやらコンバットナイフやらを投げつけてくるから困った。

 たぶん当たりどころが悪くて、松下は死んだ。そのせいで僕は警察に事情を訊かれて、あることないこと適当に答えまくった。

「元はといえば、僕のせいなんです……」

 泣きながら云うと、警官みたいな格好をした男は「ふうん」と云ったきり黙り、しばらく経った後、僕は居心地が悪くて「なんか……ここの空気薄くないですか?」と訊く。

「そう?」

「はい、たぶん」

「そうかな?」

 僕は苛立つ。

「椅子の、座り心地が全然良くないんです」

「ふうん。そっか。じゃあこっち来て」

 と云われて大人しくついていく。

 気がつくと僕は真っ白なベッドに横たわって眠っていたらしく、印象の薄い顔の男は僕にこう云った。

「よく聞いて。君はね、頭が悪いんだよ」

「…………それは。そのことは、僕自身、よく知ってます」

「本当に?」と男は云った。

「もちろんです」と僕。

 このベッドは寝心地が良かった。そんな気がしてならず、僕のテンションは上昇傾向にある。そんな感じ。

「ふうん」




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