第2話:その罪、幸福につき
鉄の冷たさで目が覚めた。
手首から伝わる鈍い圧迫感。
それが“枷”だと認識できた瞬間、佐藤マサシの表情に、安堵が浮かんだ。
暗い。湿っている。
壁は石積みで、天井は低く、空気には錆と苔の匂いが混ざっていた。
何かが腐ったような臭気が漂い、それでも彼は──微笑んでいた。
「……神は見捨てなかった」
彼はゆっくりと身を起こす。
両手首には、鉄環。そこから鎖が床に伸び、奥の鉄環と繋がっている。
足元にも同じく重そうな足枷。動こうとすると、がらん、と鈍い金属音が響く。
しかし佐藤は、その鎖の軋みに、うっとりと目を細めた。
「この質感……この重み……」
「ちゃんと“抑えつけてくれる”んだ。ありがとうございます、神様……」
そう呟く声は、誰に届くでもなく、ただ牢内に響く。
彼は右手をそっと持ち上げ──
鎖がわずかに引かれた瞬間、表情が恍惚とする。
「っ……ッ! これは……“効く”……ッ!」
背筋が震える。息が漏れる。
まるで、初めて理想の枕を手に入れた人間のような、幸福に満ちたリアクションだった。
──そのとき。
「……おい、新入り。何やってんだお前」
鉄格子の向こう、隣の牢の囚人が呆れ声をあげた。
気づけば、左右の牢から複数の視線がこちらに注がれている。
どの顔にも共通するのは、“距離を置きたい本能”だった。
佐藤は、きょとんとした顔で囚人たちを見た。
そして、にっこりと微笑んだ。
「おはようございます。皆さんも“こちら側”の方ですか?」
「……は?」
囚人たちの顔に困惑が広がる。
「おい、そこの新入り」
向かい側の鉄格子から顔をのぞかせた髭面の大男が声をかける。
肩には古びた入れ墨、目つきは鋭いが、どこかもう諦めきったような色がある。
「何の罪だ? 盗みか? 喧嘩か? 女か?」
マサシは、手枷の重みを確認するように小さく首を傾げた。
そのまま、にこりと笑った。
「……いえ、ご褒美です」
鉄格子の向こうで沈黙が走った。
「……はぁ??」
「この部屋も、枷も、鎖も。すべて神々が与えてくださった贈り物でして……。
皆さんもそうなんですよね?」
そう言って、マサシはまるで同窓会で旧友を見つけたかのような顔をする。
「共に、選ばれた方々かと──」
「いやいやいやいや、待て待て待て!」
思わず素に戻ったような声を上げたのは、別の房の囚人B。
少年のような面影を残す若者で、何かのスリで入れられたような雰囲気だ。
「なにその宗教感!? てかこいつ、目がイってる?!」
囚人Aが苦笑を浮かべながら口を開く。
「おい新入り、マジでなんの罪で捕まったんだよ。ちゃんと喋れ」
「罪、ですか……」
佐藤は小さく呟き、天井を見上げた。
薄暗い石壁の天井。その一角に、釘が一つだけ曲がって打ち込まれていた。
それを見つめる目が、異様なまでに潤んでいる。
「あえて言うならば、一人だけ幸せを掴んでしまった”罪な男”ですかね」
「…………」
囚人たちが次第に距離を取りはじめる。
「僕は新入り。何も理解していないクズ野郎です。厳しく指導してください」
ぐぐ……と手枷が軋んだ音がする。
マサシが少しだけ身を起こした。
それだけで、隣の房の男たちがビクッと肩を震わせた。
まるで、鎖が動いた瞬間に空気が冷えたようだった。
「く、格子さえなければ胸ぐら掴んでもらえるシチュエーションなのに」
本気で悔しがるマサシに牢屋の空気が冷え込んでいく。
「皆さん、かなり理不尽そうで、もうワクワクが止まりません」」
誰かが、ごくりと唾を飲む音がした。
囚人たちの目が、徐々に警戒から“怯え”へと変わっていくのが、はっきりとわかった。
それでもマサシは、まるでその空気に気づいていないかのように──あるいは、気づいたうえで味わうように──静かに言葉を紡いだ。
「私たちは、このあとどうなるのでしょうね。……さすがに、死ぬのは辛い。こんな幸せを手に入れたのに……」
その言葉には、濁りも、嘘もなかった。
「おい、誰か……こいつ、正気かどうかだけ教えてくれ」
「いや、もうそれ俺の理解の範囲超えてるって」
囚人の一人がついに声を荒げる。
「てめえ、気持ち悪いんだよ! くたばっちまえ!」
──その罵声を浴びた瞬間、
まるで光合成をしたかのように、マサシの顔に色が差す。
「あぁ……ご褒美、ありがとうございます」
沈黙が落ちた。
誰も、言葉を発せなかった。
マサシのその一言が、まるで牢屋という“枷”の中に、一層の重石を落としたようだった。
* * *
──がしゃん。
突然、鉄の扉が開く音が、牢の奥から響いた。
重い足音。現れたのは二人の兵士だった。金属鎧の擦れる音が牢内の空気を緊張で締めつける。
「番号1671、出ろ」
無造作に言われた番号が、マサシを指していた。
兵士の手が枷の鎖にかかる。
その瞬間──マサシは、叫んだ。
「やめてください! どこに連れていくんですか?ここが!ここが、私の理想郷なんです!」
もがき、泣き、喚き、手足の鎖を必死に掴んで抗う姿に、
兵士の一人がドン引きした目で呟く。
「……な、なんだコイツ……変な薬でも盛られてんのか?」
無理やり引きずられていくマサシ。
その手はなおも鉄格子を求め、声は嗚咽混じりに響いた。
「くっ……ああ……枷……! 鎖……! せめて、首輪だけでも──!」
──扉が閉まり、音が消える。
「……」
あまりの衝撃に、しばらく誰一人声を発することができなかった。
しばらくして囚人たちは一様に、息を取り戻した。
「ここより地獄ってあったんっすね......」
牢内には、久々に訪れた“人間的な空気”が流れていた。
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