第25話 試される

 夜の帳が城を覆い、皇都は静かな光を散らしていた。

 昼の喧騒は跡形もなく消え、遠くで夜警の鎧が擦れる音だけが風に乗って聞こえる。

 執務室の窓辺に立つイオーラは、その灯を見つめながら、胸の奥に押し寄せる孤独を感じていた。


 ——コンコン。


 扉を叩く音がやけに控えめで、思わず眉をひそめる。

 ヤンなら返事を待たずに飛び込んでくるはずだ。

 不審に思い扉を開けると、そこに立っていたのはレイヴィス。そして、その背後に三人の人影。


「……陛下。いかがなさいましたか」

「夜分にすまない。入ってもいいか」

「えぇ」


 イオーラは彼らを部屋へ招き入れる。

 厚い絨毯に靴音が沈むと同時に、緊張した空気が流れた。


「紹介しよう。私の側近の三人だ」

「執務官、ヒュバル=フェルシアでございます」

「武官、ヴィクター=シルヴェストルです」

「外務官のリッツェル=グラナートと申します」


 三人は揃って深く礼をする。

 名乗りを聞いた瞬間、イオーラは思わず息を呑んだ。

 フェルシア——狩猟会の記憶が蘇る。

 ヒュバルは儚げな微笑を浮かべた。陶磁のように整った顔立ち、その瞳の奥には研ぎ澄まされた光が潜んでいる。


「先日は従妹が無礼を働きました。……彼女は思慮が浅いのです。殿下には不快な思いをさせてしまったでしょう」


 丁寧な謝罪。だが、その声音の底には、血筋に生まれた者ゆえの冷ややかな諦観が滲んでいた。

 イオーラは微かに首を振る。


「ヒュバル殿のせいではありません」


 レイヴィスは彼らを見渡すと、ゆっくりと口を開いた。


「実は、そなたの意思を確かめに来た」

「意思……?」

「この国へ来て一月。そなたを見てきた私と、この三人は——そなたこそ皇后の資格を持つ者と認めている」


 唐突な言葉に、イオーラは瞬きを忘れた。

 認められたいと願ったことはない。むしろ期待もされず、不要とされて育った。

 それでも、この国の皇帝がそう言うのだ。胸が揺れる。


 だが、続く言葉がその思いを凍らせた。


「だが、貴族院から上奏があった。——そなたに皇后の試練を受けさせよ、とな」

「試練……」


 重苦しい響きに、空気が凍る。


「馬鹿げています!」


 最初に声を荒げたのはヴィクターだった。逞しい体躯を震わせ、拳を固く握る。


「試練など二百年近く行われていない!  帝国の令嬢が皇后となってきたから、調べるまでもなかったのです。それを今さら——」

「落ち着け、ヴィクター」


 リッツェルが冷ややかに言葉を差し挟む。


「だが真実だ。禁足地である神殿の地下に放り込み、無事に戻れれば『資質あり』、戻れねば『資質なし』。……粗雑きわまりないやり口だ」


「記録を遡れば、成功者もおりますよ」ヒュバルが指先で口元を隠し、微笑む。

「ただし片手で数えるほど。大半は迷宮に呑まれたまま。……血で綴られた記録ほど、よく残るものです」


 ぞくりとした寒気が背を走る。

 イオーラは小さく呟いた。


「……私を皇后にしたくない者がいるのですね」

「その通りだ」


 レイヴィスは短く答える。

 前髪を掻き上げる仕草に、普段は隠している苛立ちが滲んだ。

 リッツェルは静かな声で続けた。


「外交官として言わせてもらえば、和平同盟の象徴にこの仕打ち。帝国の品位すら損なわれかねません」

「俺は納得できません!」


 ヴィクターが再び声を荒げる。


「殿下を危険に晒すなど、忠義に反する!」

「——けれど避ければ、『資質なし』と烙印を押されるだけです」


 ヒュバルの微笑は薄氷のように冷ややかだった。


「選択肢は、一つしかありませんよ」


 部屋に沈黙が落ちる。

 イオーラは唇を噛み、深く息を吸った。


(逃げればただのお飾り。だが挑めば命を落とすかもしれない……)


 思考が渦巻く。皇国では不要とされ続け、期待すらかけられなかった。

 それでも——今は違う。目の前の皇帝が、自分の意思を問うている。


「……受けます。その試練を」

「理由は?」

「三権の一つである皇后を否定されれば、私はただの飾りにすぎません。私は陛下と並び、自らの意思で歩む皇后になりたい。そのためには、認められるほかにありません」


 その瞬間、レイヴィスの口元がわずかに緩んだ。

 彼は机に置いた古びた書物を手に取り、イオーラへ差し出す。


「二百年前の記録だ。神殿の地下迷宮にある『聖印』を取り戻し、無事に帰還すること。それが成功条件だ」


 イオーラは書物を開いた。黄ばんだ羊皮紙に記された文字は、どこか呪術的な禍々しさを帯びていた。

 そこには迷宮の簡略な地図と、幾つかの断片的な記録——仕掛けに潰され、狂気に陥り、あるいは消息を絶った名が並んでいる。


「通路には数多の仕掛けがある。判断力、精神力、そして何より……覚悟を試される。失敗すれば命はない」


 レイヴィスの声音は淡々としていた。だが、その奥には僅かな気遣いが滲んでいるのをイオーラは感じ取った。


「……必ず成功して戻って参ります」


 短い言葉に宿る決意に、側近たちの表情が揺れた。

 リッツェルは目を細め、低く呟く。


「外交の場では、こういう勇気を『真価』と呼ぶのです」


 ヴィクターは胸に手を当て、大きく頷く。


「殿下が挑まれるなら、私は命を賭して支えます!」

「頼もしいことですね」


 ヒュバルが笑む。だがその瞳には、試練そのものを愉しんでいるような色が一瞬、浮かんだ。


 レイヴィスは立ち上がり、背を向ける。


「狩りであれほどの才覚をみせた。今回も期待している」


 氷の帝と恐れられる男から放たれた言葉は、不思議な温度を帯びていた。

 イオーラはその背中を見送りながら、胸の奥に熱を抱く。


 ——試されるのだ。


 彼らが退出すると、部屋には夜風に揺れるカーテンだけが残る。

 闇の向こう、神殿の地下迷宮の影がちらつく。


 イオーラは静かに目を閉じ、心を整えた。恐怖も緊張もある。だが、それを越えて進む力は、自分の中にしかない。

 深く息を吐き、瞳を開く。


(私は——自らの力で進む。皇后としての資質を示すために)


 遠い庭園の闇に沈む樹影が、迷宮の不確かな影と重なった。

 それでもイオーラの背筋は真っ直ぐに伸び、決意の光が瞳に宿っていた。

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