第8話 毒なき敵意

 

 その昼、運ばれてきた茶は、淡い琥珀色をしていた。

 香りも味も穏やかで、侍女の手元にあった銀器に淹れられたそれは、一見して何の変哲もない――ようにみえた。

 だが、イオーラは、唇を近付けた瞬間に、ほんのわずかな違和感に気づいた。


 皇国育ちのイオーラにとってはあまりにも日常だったにおい。


 毒ではない。だから、毒を見分けるための銀器にも黒ずみはない。医者を呼んだとしても「環境の変化に体が敏感になっているのでしょう」と片づけられる程度のものだ。


 しかしこれは、明確な意図をもって選ばれたものだ。


 イオーラは、銀器の茶器に伸ばした手を止めた。


「……お気に召しませんでしたか?」


 侍女の声は年若く、緊張を隠せない声音だった。元々細い体の線が今にも折れそうにさえ見える。


 可哀そうに。この嫌がらせを押しつけられでもしたのだろう。


「……いいえ、少し……懐かしい香りがしただけです」


 イオーラはそう答えて、お茶を飲み干すと呆気にとられた侍女に向かって笑みを浮かべた。

 その瞬間、侍女も悟ったのだろう。侍女は深く頭を下げて部屋を退いた。




 扉が閉まり、静けさが戻る。

 イオーラはしばらく、空になった銀器を見つめていた。


 毒ではない。だが、明らかな敵意。


 むしろ毒であれば、こんなに安っぽい敵意に正面から向かうこともなかっただろう。


 部屋の隅で控えていたヤンが、そっと声をかける。


「イオーラ様……あの香りはまさに」


 彼女は頷いた。


「——ノルツの痺れ草。皇国では、子どもが触れて泣くほどの軽い毒。摘んだ指先が痺れる。摘んでしまえばお茶の葉に似ているが、煎じて飲めば、喉の奥に違和感が残る」


 ヤンの顔に険しい影が落ちた。


「陛下に……」

「知らせてどうなる?」

「……処罰を望まれないのですか?」


 イオーラは立ち上がり、窓の方へ歩いた。


 重たく閉ざされた格子窓。曇った硝子の向こうに、帝都の空は鈍く沈んでいる。


「たった一杯の茶で処罰を求めれば、私は弱さを認めることになる。ここでは……弱さを見せた者から喰われるらしいからな」


 イオーラの声は静かだったが、窓越しに広がる沈黙の空に、まっすぐに響いていた。


「それに……これは警告だ。『私はここにいない方がいい』という」

「そんなことは……」

「分かってる。だが、私に逃げ道なんて、最初からない」


 イオーラは振り返り、ヤンに向かって微笑んだ。


 それは、毅然とした皇后の顔ではなかった。

 むしろ、「魔の森で育った者」としての、静かな誇りが滲んでいた。

 

「……では、せめて口の中を洗いでください。少しでも成分を薄めなくては」

「……あぁ。存外不快なものだな」

「当たり前ですよ」

 

 ヤンが用意した水を口に含み吐き出す。

 何度か繰り返したあと、イオーラは口元をぬぐった。

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