第13話 揺れる馬車と記憶の泉

馬車の中は、驚くほど静かだった。


私と龍胆りんどう様を隔てるのは、ほんの数尺の距離。


それなのに、彼の周りだけ


空気が違う層を成しているように感じられる。


彼は目を閉じ、瞑想でもしているかのように微動だにしない。


その完璧な横顔からは、何の感情も読み取れなかった。


私はどうしていいか分からず


ただ窓の外を流れる景色に視線を逃がす。


帝都の華やかな街並みが遠ざかり、緑豊かな平野を抜け


やがて馬車は険しい山道へと差し掛かっていく。


その、時だった。


ガタンッ、と。


馬車が、これまでにないほど激しく揺れた。


狭い山道で、車輪が大きな岩でも踏みつけたのだろう。


「きゃっ……!」


不意の衝撃に、私の体はふわりと宙に浮き


なすすべもなく床に打ち付けられる―――はずだった。


目を開けると、私は誰かの腕の中にいた。


いつの間にか目の前に移動していた龍胆様が


私をかばうように、その腕で強く支えてくれていたのだ。


「……っ」


彼の素早い動きは、まるで条件反射のようだった。


契約のためでも、体面のためでもない。


ただ、危険から守るためだけの、純粋な行動。


鼻先を、彼が纏う清浄な白檀の香りがかすめる。


見上げた先にある彼の瞳に


私は初めて、焦りと、混じりけのない心配の色を見た。


それは、ただの『形代かたしろ』に向ける眼差しではなかった。


はっとしたように、龍胆様は私から乱暴に体を離す。


そして、気まずげに顔をそむけた。


「……怪我は」


絞り出すような、低い声。


彼の方から、私の身を案じる言葉をかけられたのは


これが初めてかもしれない。


「だ、大丈夫です。ありがとうございます……」


心臓が、痛いほどに鳴っている。


気まずい沈黙が、馬車に落ちた。


けれど、それは以前までの冷たい沈黙とは、どこか違っていた。


この機を逃してはいけない。


私は、勇気を振り絞って口を開いた。


「あの、龍胆様……。これから向かう『霧の湯』というのは、どのような場所なのでしょうか?」


当たり障りのない、儀式に関する質問。


彼は答えないかもしれない。


そう思ったが、長い沈黙の後


龍胆様は窓の外を見つめたまま、ぽつり、と答えた。


「……此岸(しがん)と彼岸(ひがん)の境が、ひどく曖昧になる場所だ。力ある、古の泉だよ」


「境が……曖昧に……」


「霧の泉は、時として、人が失くした記憶を映すと言われている」


その声は、ささやくようにかすかで


どこか遠い響きを持っていた。


彼が語っているのは、ただの伝説ではない。


彼自身の、何かに関わることなのだと直感した。


やがて、馬車がゆっくりと速度を落とし、止まる。


目的の霊峰の麓にある、宿に着いたのだ。


龍胆様は、もう何も言わずに馬車を降りていく。


一人残された車内で、私は彼の言葉を反芻していた。


『人が失くした記憶を、映す』


彼がこの旅を厭うていた理由が


少しだけ分かった気がした。


この場所は、彼の心の傷に、過去に、深く繋がっているのだ。


私も覚悟を決めて、馬車を降りる。


目の前には、深い霧に包まれた宿坊が、静かに佇んでいた。


これはもう、ただの儀式ではない。


彼の閉ざされた心の、その源流へと続く旅なのだ。


私は固唾を飲んで、霧の中へと一歩、足を踏み入れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る