17
仕事場とは言ったものの、所詮は壁際に置かれた作業台に過ぎない。この建物には、たった一室しか存在しない。だからこそ、生活区域と仕事場の句切りなど、あって無いようなものだった。
大きな作業台へと足を運ぶと、まずは最初に銅釜を用意する。両手で抱えて慎重に持ち上げると、ずしりと重たい感覚が疲れ切った肉体を刺激した。料理鍋といった程度の大きさだが、重量感はそれを遥かに上回る。ずんぐりと膨張した胴部に対して、微かに首が窄まった形状は、釜というよりは壺に近いと言えるだろう。随分と使い古された印象が見受けられるものの、その役割と活躍ぶりが色褪せることはない。
これは、昔の薬師が残した仕事道具を引き継いだものだった。かつての主の素性など、何一つとして分からない。所有者が役目を終えて去ったとしても、上質な道具は次なる世代に受け継がれる。この思想は、街を作った女神の教え。それに肖るようにして、街では様々な道具が時代を超えて大切にされていた。
銅釜に乳白色の鉱石を落とし入れると、小気味よい金属音が鳴り響く。続けざまに落とし込むのは、山から持ち帰った毒々しい薬草。全てを余すことなく投じると、ほんの僅かに重たい毒気が溢れ出す。イラニアは狼狽え気味に後退り、ショールで口元を覆い包んだ。微かな頭痛を覚えつつも、銅釜に透明な液体を注ぎ込む。薬草から染み出した青紫色の侵食が、徐々に色濃くなってゆく。やがて、瞳を塗り潰すほどの重たい色へと変化すると、次なる工程に通じる一手が紡がれる。
かしゃり……と擦れる金属音が、意味あり気に囁いた。細やかな音を紡いだのは、さり気なく持ち上げた手首を彩る金の矩形。きらりと輝く鎖腕輪が静止すると、視線の高さに指先が到達する。一本の指先を真っ直ぐに突き立てると、薄目に瞼が落とされる。
ヴォッ……と微かな音が鳴り、指先に小さな炎が灯された。これは、母親たる妖精から唯一受け継ぐことのできた力。今にも消え入りそうな蝋燭ほどの灯火を、銅釜の支える炉にかざす。帯燃性の鉱石に火が灯ると、安定した炎が宿り熱源が生み出される。そして、心許ない指先の灯火が、役目を終えて消え落ちた。
イラニアが扱うことのできる術は、これ一つだけだった。所詮はマッチを擦らずに火を付けることができる程度の取るに足らない魔力。あまりに矮小な力を前にすると、虚しさを覚えるばかりだった。反射的に噛み締める思いは、いつもと変わらずの仄暗い自己否定。しかし、今はそのような悠長な戯れに浸る余裕などはない。加熱されてゆく銅釜が、次なる作業を求めている。ちりちりと熱される鉱石の呼び声に促されて、慎重に薬品を注ぎ足す。発泡し始めた溶液は、青き色彩を増していた。この変容が意味することは、毒が抜けて薬へと変化する段階への移行。
薬効の抽出は、とても神経を使う作業だった。一節によると、豊富な魔力を用いることで、大幅な工程の簡略化を見込めるらしい。仮に純血の妖精の手に掛かれば、一瞬で作業を終えることもできるようだ。しかし、魔力無き存在には、時間をかけてゆっくりと作業するしか術はない。自身の無力さに辟易しながらも、イラニアはただ黙々と抽出作業を続けていった。
単調な作業の最中には、いつも決まって朧げな思索が始まる。微細な色調の変化を続ける薬液に促されて、脳裏に広がる風景さえもが変化する。徐々に精彩を増してゆく幻影は、樹海の奥に秘匿された湖畔の印象。ふつふつと泡を立てる薬液を眺めつつも、脳裏に揺らぐ美しき風景に思いを巡らせる。
やがて、完全に発泡が収まるころになると、最優先に片付けるべき作業が終わりを告げた。残された工程は、半ば自動的に進むことになる。数日間に渡る熟成を待ち、最後の仕上げとして丁寧に濾過をするのみ。潤沢な薬効成分が形成されることを祈りつつも、火を落として銅釜の蓋を閉じる。
他の収穫物に関しても、適切な処理をする必要があるのだが、今日中にやるべきことは限られている。後日の作業を円滑にするために、天上に吊るして適切な乾燥を促すだけでよい。鞄に残された薬草を、余すことなく吊るし終えると、ようやく全ての仕事が終わりを告げた。
肩から力が抜けてゆき、どっぷりと深い溜息が溢れ落ちてゆく。イラニアは疲れ切った様子を隠さずに、ふらりふらりと崩れ落ちた。酷い消耗を感じると、耐え忍んでいた頭痛が勢いを増して押し寄せる。立ち上がることさえも難しい状態だった。そうだとしても、すぐに解毒に当たる必要がある。イラニアは眩暈に蝕まれながらも、薬を求めて戸棚に向かい這い進んでいった。
窓際の壁に寄りかかり、薬液を満たしたショットグラスを唇に添える。口腔に滲み広がる甘味の奥には、細やかな苦味が潜んでいた。奥深き風味を堪能しながらも、鼻腔から抜けてゆく香りを見送った。この解毒剤は、冬場に漬け込んでいた特別な薬。とある書物を参考に仕立てたのだが、提示された全ての材料を用意することはできなかった。幾つかの材料に関しては、手に入る代替品に置き換えられていた。
そのような経緯があるために、仕上がりに対する不安は拭えなかった。しかし、どうやらそれは杞憂のようだ。自ら試す限りでは、それなりの効能を感じられた。想像以上の出来栄えではあるものの、充分な効果を得るためには、度重なる摂取が必要になる。この点から理解できることは、効果の薄さと持続性に対する難点だった。
やはり、魔力持たない半妖の限界か……と力なき溜息が零れ落ちてゆく。自らの無力さを目の当たりにすると、ついつい絶望感に苛まれてしまう。すると、心を蝕む影を焼き払うかのごとく、朱き光が周囲を塗り染めた。イラニアは不思議な光の源を辿るように、虚ろげな視線を持ち上げた。
周囲を塗り潰すほどの輝きは、窓の向うから注がれていた。膨大な光に眩む瞳を薄めては、乱れ崩れた焦点を整える。徐々に素性が露にされてゆく光景に、思わず意識を奪われてしまう。窓枠のキャンバスに描き出された風景は、この世のものとは思えないほどに美しい。
世界の全てを余すことなく焼き尽くそうとしているのは、遠く彼方の稜線に沈む光球の爆発的な輝き。このような風景を楽しめることも、高台に構えられた棲家の恩恵だった。朱く燃える街並みの背後には、煌々と輝く山間が映し出されていた。光溢れる山々のどこかには、あの美しき湖畔が秘匿されているのだろうか。
虚ろげな思いに耽っていると、次なる揺らぎが押し寄せる。遠く彼方から響き渡る鐘声が、意識を貫くようにして、不思議な波紋を滲ませた。その音像の正体は、時を伝える鐘の音。時計台によって奏られた調べを合図として、夕刻の礼拝が執り行われる。きっと今ごろは、聖堂に多くの人が集まっており、厳かな祈りを捧げていることだろう。イラニアは人集りが苦手であるために、滅多に礼拝に参加することはなかった。この時間帯には、他に大切なことがある。だからこそ、他人事に関与する余裕などはない。
昼と夜の狭間を彩るひと時は、静かなる孤独に恵まれる瞬間でもある。稜線を燃やし沈み落ちてゆく光球を見送りつつも、天窓に覗き始めた星々に思いを巡らせる。独り穏やかな夢想に耽りつつも、ショットグラスを傾ける。芳醇な薬液が染み渡ると、僅かな気力が取り戻された。
夕刻の礼拝が終わりを告げると、街は静寂に包まれる。夜闇に塗り染められた風景に、冬の残り香を宿した風が吹き抜ける。闇に塗れた不可視の行進は、樹々を掠めて路地を抜けてゆく。そして、天高くに舞い上がり、彼方に煌めく星々を目指して流れ去っていった。
イラニアは明かりを灯すこともなく、不思議な煌めきに染まる一点を茫然と見つめていた。瞳を虜にする光景は、完全に静止しているようでありながらも、確実な時の流れに縛られていた。窓枠のキャンバスに描かれているのは、現実と幻想の中間を思わせる構図。闇に染まる外の世界と、微かに映し出された室内を一つに重ね合わせるように、緻密な描写が紡がれていた。
二つの世界が一点に交差する印象を前にすると、湖畔の中心を彩る水鏡を思い出す。実像と鏡像が重なり合う印象は、今でも強く心に残っていた。異なる種類の花々が、鏡像を通じて寄り添い合う。その印象は、一枚の絵画のような在り方で、心奥底に秘匿された領域に掲げられていた。
重たく深い溜息が零れ落ちてゆく。不意に意識を擽るのは、口腔に隠れていた薬液の残り香。その質感は、樹海に流れる微風にも似ていた。奇妙な揺らぎが押し寄せると、妖しき樹海の探索風景が、脳裏に描き出されてゆく。そして、その先に秘匿された領域が、意識の彼方から浮上する。
脳裏で語らう花々の芳香が、心を余すことなく包み込む。あまりに濃厚な揺さぶりを受けると、思わ噎せ返りそうになってしまう。僅かに残された薬液を流し込み、そっと喉を慰める。豊かな渋味が染み渡り、不思議な揺らぎが押し寄せる。その感覚に意識を傾けると、甘く不思議な幻影が脳裏に映し出されてゆく。イラニアは空になったグラスを弄びながらも、心奥底に宿る風景に思いを巡らせた。
––もう一度、あの湖畔に行きたい……
祈り立てるように独白しながらも、朧げな夢想に浸り込む。心を揺さぶる細波が、次なる世界への移調を促した。虚ろげに揺らぐ意識までもが粉々に崩れ去り、甘い眠りの奥へと散ってゆく。
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