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 旧市街の入り口たる区画には、古めかしくも整然とした街並みが広がっていた。品良き建物が立ち並ぶ風景は、新市街とは全く異なっている。歴史深い雰囲気が立ち込めてはいるものの、決して老廃した印象は見受けられない。至るところから覗き見えるのは、整備が行き届いた様子だった。この一帯は旧市街で最も閑静な住宅街。歴史深い名家を始めとした、比較的裕福な階層が居住する地域として知られている。


 この区画を超えた先には、更なる懐古的な街並みが待ち受けている。閑静な住宅地を貫く通りを超えると、やがて旧市街の象徴たる区画に辿り着く。厳かな雰囲気に染まる街並みは、聖堂区域と呼称されていた。この地の中心を彩るのは、街を創った女神を祀る聖堂。そして、それに関連する諸々の施設が、周囲を取り囲むように置かれている。道義深き精神性を重んじる区画––––聖堂区域は街で最も安全な一帯だといわれていた。


 時計台の門から始まる一本道は、聖堂まで真っ直ぐに続いている。現代では閑散としているものの、古き時代には参道として、大いに栄えていたらしい。繁栄の残り香を滲ませるように、道行く彼方からの終点からは、朱き光が注がれていた。聖堂が放つ後光のような西明かりは、あらゆる穢れを焼き払う。そのような謂れを持つ光に導かれて、いつの時代も変わらずに、人々は聖堂に足を運んでいた。今日もまた、何かを縋り求めるかのように、か弱き存在が聖堂に向かっていた。


 今にも崩れ落ちそうな足取りで、弱々しくも必死に前に進む者がいる。それは、旧市街に戻ってきたばかりの銀髪の半妖。あまりにも酷い有り様は、神聖な参道に相応しいとは言い難い。それでもきっと、女神たる存在ならば、拒絶することもなく受け入れてくれるだろう。様々な痛みを必死に耐え忍び、何かを縋り求めるように歩む姿は、目を当てられないほどに痛ましい。


 容赦なき暴虐、再来した毒の侵食、そして時計台で見舞われた悪心。複雑に絡み合う不快感に押し潰されそうになりつつも、足を止めることなく進みを続けてゆく。銀髪の半妖が目指すのは、聖堂ではない。この通りを超えた先に待ち受ける棲家こそが、旅路の終着点だった。つまりは安全な穴蔵に通じる帰路を、必死に辿っているだけに過ぎないのだ。


 今にも崩れ落ちそうになりながらも、ようやく聖堂区域に辿り着く。不可視の境界を踏み越えた瞬間に、周囲を織り成す空気感が僅かばかりに切り替わる。住宅群と入れ替わるように現れたのは、時が止まってしまったかのような静寂。通りに連なる石造りの建造物が、厳かな雰囲気を助長していた。


 至るところに溢れているのは、物音を立てることさえ慎むべき雰囲気。そうだとしても、一日に二度は騒がしくなる時間帯がある。その原因を生み出すのは、聖堂で執り行われる祈りの儀。朝方と夕方には、礼拝に参加する人々が押し寄せる。その時だけは、静寂に支配された聖堂区域にも、温かみ溢れる賑わいに包まれる。


 都合悪くも夕刻の礼拝が、刻一刻と近付こうとしていた。聖堂に続く通りをいち早く抜けようと、銀髪の半妖は急いでいた。無様な姿を群衆の前に晒すことだけは、何としてでも避けたかった。どうか、誰にも出会すことなく、棲家に戻らせて欲しい……と銀髪の半妖は奥歯を噛み締めて、縋り求めるように祈り立てた。そして、身を隠すように深く俯いて、見えない追っ手から必死に逃げるかのように、通りを抜けていった。


 虚しきことに、切実な願いが叶うことはなかった。行く手を遮るのは、路地に塗り落とされた黒染仕立ての長い影。たった一人が生み出した影からは、あまりにも濃厚な存在感が滲み溢れていた。影絵の主たる人物は、絶対に会いたくない存在だった。


 その正体は、聖堂を統べる役割を担う司祭。未だに何も気付くことなく、慎ましやかに路地の掃除に勤しんでいる。あまりにも特徴的な佇まいであるが故に、人違いを願うことさえ難しい。人並み外れた長身には、神職の衣装たる黒の長衣がよく似合う。凛とした佇まいを見せながらも、影に隠れる表情からは厳めしさが滲み出している。衣装に隠れる身体には、無駄な贅肉の類いは欠片さえも備わっていない。すらりと真っ直ぐに背筋の伸びた風貌は、槍のような長身を際立たせていた。


 差し込む光に照らされて、隠れていた表情が露にされてゆく。丁寧に整えられた髪は、夕の届ける色合いに染まっていた。頬をから顎にかけてを覆う髭もまた、髪に合わせて細やかに揃えられていた。微かに光が薄れると、毛髪から朱の彩りが抜けてゆく。そして、本来の色合いである、特徴的な薄墨色に戻されていった。


 覗き見える瞳もまた、髪と似たような色に染まっていた。悩ましげなアッシュグレイの彩りが、近寄り難い印象を助長する。心の内を探ることの難しい雰囲気こそが、強面な風貌を助長しているのだろう。あまりにも峻厳な印象は、女神に仕える司祭というよりは、マフィアの総統と表現した方が適切かもしれない。


 しかし、その内に秘めたる性質は、外見とは全く異なっていた。柔和な本質を強調するのは、身分を象徴する黒き長衣を彩る紋様。特徴的な花々を宿したジャガード生地は、さり気なくも華やかで、品良き印象を帯びていた。この特徴的な意匠は、女神の象徴である薔薇と睡蓮を模した織模様。


 神職の衣装に身を包めば、途端に厳めしさが影を潜める。そして、滲み溢れる温厚な人柄が、じわりじわりと前に出る。それが虚飾ではないことを示すように、司祭は街一番の人格者としても知られている。最も悪人からほど遠い存在であることは、誰もが認める真実なのだ。年の頃は五十代半ばを迎えたほどだろうか。その割には、随分と若々しい印象であることもまた、特徴的な一面だった。聖堂を統べるクラヴィエス司祭は、民衆からの絶大な信頼に支えられていて、旧市街の良心として慕われていた。


 銀髪の半妖に気が付いたクラヴィエスは、掃除の手を止めて歩み寄った。不自然に汚れた様子を前にして、哀れみ深い眼差しを向けると、労いを込めて語り出す。


 「イラニア、今戻ったのかい。お疲れ様…」


 このように親しみを込めて、銀髪の半妖を実名で呼ぶ者は数えるほどしかいない。銀髪の半妖––––改めイラニアは、無言を貫きながらも俯き気味に頷いた。無慈悲な虐げによって受けた苦しみを、必死に包み隠そうとしているのだろうか。その姿は、見るに耐えられないほどに痛ましい。クラヴィエスは慈悲深き眼差しを向けて、汚れた頬を丁寧に拭い清めようと試みる。


 「こんな酷い目にあって……さぞ辛かっただろう」


 滑らかに通る低い声から、奥深き慈悲の念が滲み出していた。イラニアは悩ましげに後退りつつも、差し伸べたられた手をやんわりと遮った。見返りを求めない優しさは、時として何よりも心苦しいものだ。申し訳なさと不甲斐なさ、そして無力な自分に対する嫌悪感が、容赦なきまでに心を蝕むばかりだった。いたたまれない思いに震えると、乾き擦れた声が零れ落ちてゆく。


 「いつものことだよ。それに、仕事があるからもう行くよ……」


 誰の目にも触れることなく、今すぐ孤独に浸りたい……。確固たる思いを抱き締めて、イラニアは足早に歩き去ろうと試みた。すると、そっと後ろ髪を引くように、優しげな声が届けられる。


 「明日にまとめて洗濯に出すから、その上着も一緒に洗っておくとしよう。汚れたままでは嫌だろう」


 イラニアは生まれたばかりのころに、生みの親と死別していていた。幸運なことに、聖堂管轄下の孤児院に保護されたために、何とか生き存えることができたのだ。クラヴィエスとの付き合いは、その頃から続いていた。


 保護対象を亡くした混血の幼子は、大方次の二通りになると決まっている。惨たらしく野垂れ死ぬか、言葉にし難い酷い目に遭って使い潰される。それを良く思わない聖堂は、身寄りなき子供たちを率先して保護している。管轄下の孤児院に受け入れて、甲斐甲斐しく面倒を見て、立派な成長を見守っているのだ。


 後に明らかにされた話ではあるが、顔も知らない生みの親は、クラヴィエスの大切な友人だったらしい。その理由があるためなのか、長きに渡り懇意に世話をしてくれていた。イラニアは既に庇護を要さない年齢を超えているために、何年も前に孤児院を後にしていた。それでもクラヴィエスは、昔と何も変わることなく、律義なまでに気に掛けてくれていた。


 クラヴィエスとしては少し寂しいようなのだが、今となっては庇護的な関係は薄れていた。それでも、過去とは少しばかり異なった関係性が、二人の間に築かれていた。独り立ちをしたイラニアは、薬師としての生業に勤しんでいる。そして、薬師を統括する役割は聖堂が担っている。諸々の仕事の依頼元や、成果の納品先となる窓口は、クラヴィエスが担当していた。つまりは情を伴う必要のない、仕事上の関係性となっていた。それでもクラヴィエスは、昔と何一つとして変わらずに、さり気なくもイラニアを支え続けていた。


 「いつも、ありがとう……」


 イラニアは消え入りそうな声で、申し訳なさそうに感謝を伝えた。すると、クラヴィエスは全てを受け入れるように、慈悲深い微笑みを返した。


 「気にすることはない。いつでも頼っていいんだよ」


 イラニアは汚れに汚れた上着を脱いで手渡すと、肌寒さに身を震わせながらも頭を下げた。そして、これ以上の追求から逃れるように、足早に歩き去っていった。クラヴィエスは心痛しきった形相で、隠れるように去りゆくイラニアを見送った。自分の力では護りきれない悔しさを噛み締めながらも、祈り捧げるように手を合わせる。


 ––女神様、どうかイラニアをお護り下さい……

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