8
銀髪の半妖は何かに追われるように、一心不乱に山を駆け降りていた。目指すは中腹に築かれた拠点。何としてでも光が落ちる前に、目的地に辿り着く必要がある。夜を迎えた野山の至るところには、人智の及ばぬ驚異が潜んでいる。それ故に、昼の光球が沈み去った後の行動は、固く禁じられていた。
仮に禁忌を破ろうものなら、命の保障などはない。夜の野山を彷徨って、虚しくも飲み込まれた者––––戒律を軽んじて、夜狩りに興じた揚げ句の果てに、自らが供物となってしまった愚か者–––冒険気取りで禁足地へと踏み込みんだ末に、野生動物に襲われた素っ頓狂––––。夜の野山を甘く見て、虚しく散っていった者たちの話は、掃いて捨てるほどにある。
銀髪の半妖もまた、愚かな物語の一篇に加わる危機に瀕していた。夕焼けに染まり始めた野山の風景は、瞬く間に薄闇へと塗り潰されてしまう。完全に光が落とされる前に、必ずや目的に辿り着かなくては……と言わんばかりの勢いで、必死に山道を駆け抜けていた。
幸運なことに、最難関たる樹海の迷宮は、想像以上に容易く抜けることができた。ここでは多くの感覚が暈されてしまうために、正確な道筋を把握することは難しい。未だに謎が溢れていて、その全貌を把握するにさえも至っていない。唯一明るみにされているのは、関門へと通じる薄暗い野道のみ。
仮に樹海に迷い込んだとしたならば、為す術もなく捕われて、二度と脱出できないはずだった。それでも、何故か分からないのだが、毎度のように安全に帰還することができていた。不可解な恩恵を生み出す要因に、思い当たる節は一つしかない。恐らく、何らかの影響を及ぼすのは、自らに宿された血筋だろう。しかし、その仮説を裏付ける情報はなく、結局のところ謎は深まるばかりなのだ。たとえ妖精の血脈を受け継いでいたとしても、それに準ずる力などは、欠片たりとも持ち合わせていない。それ故に、森の加護を受けるべき資質など、あるはずもないだろう。
樹海での探索に明け暮れる日常は、既に数年に及んでいた。そうだとしても、謎は何一つとして明かされることはない。そして、この地は禁足地の一つであるために、地理を始めとした情報さえも残されていない。足を踏み入れて無事に脱出するたびに、謎は深まるばかりなのだ。
天から注ぐ光の多くは遮られ、全てが暗緑に塗り潰されている。行く先が不明瞭に暈されるのみならず、ありとあらゆる感覚までもが悪戯に撹乱されてしまう。更なる追い討ちをかけるのは、至るところに溢れる妖しげな胞子。気が付くと、意識までもが翻弄される。この状況に陥ったら最後、謎を解きかそうという意志は、跡形もなく崩れ落ちては忘却の彼方に消えてゆく。
樹海の至るところには、数多の狂気が溢れ返っている。慣れを感じた頃合いになると、新たな謎や驚異が押し寄せる。次々と襲い掛かる魔手を軽んじて、少しでも気を抜こうものならば、永久に捕われてしまうだろう。そしてまた一つ、新たな謎が提示された。それは、樹海の奥に秘匿された美しき湖畔。あの場所で過したひと時を思い返すと、なんとも不思議な気分に包まれる。心安らぐ感覚と、深い驚きが同時に押し寄せると、制御効かずの感情が暴れ出そうと波を打つ。
平静を取り戻しつつも、山に関する情報を手繰り寄せる。どれだけ記憶を辿っても、山奥に湖があるということは、聞いたこともなかった。地図に記されていないことは当然として、伝承や記録の類いさえも残されていない。思うことはただ一つ……謎に包まれた樹海には、明かされることなき数々の秘密が隠されている。銀髪の半妖は虚ろげな思索に耽りつつも、迫り押し寄せる夜の帳から逃れるように、足早に山を駆け降りていった。
山道を降り切ると、平坦な野原が広がる一帯に辿り着く。光は消え落ちかけているものの、ここまで来ればもう安心だと言えるだろう。道なりに奥へと進んでゆくと、ようやく目的地が見えてくる。それは、野原の奥に設えた仮住まい––––旅路の終着点たる野営地だった。
山の生活拠点に辿り着くころには、全てが夜の気配に塗り潰されようとしていた。闇染にされた野原に目を凝らすと、この場に不釣り合いな直線的形質が現れる。それは、最終目的地の旗印とも言える象徴物––––自ら設置していたテントだった。幸運にも無事が保たれており、野生動物が訪れた気配さえも残されていなかった。安全を確保できた恩恵は、とある魔除けの香が及ぼした効果だろうか。野山に溶け込んだ残り香を感じると、安堵の溜息が零れ落ちてゆく。今すぐにでも休みたいところだが、まずは光を確保しようと焚き火の準備に取り掛かる。
周囲が完全な闇に染まる直前に、ようやく明かりが灯された。煌々と燃える炎の彩りが、銀色の髪に温かな色を滲ませる。心なしではあるものの、髪に隠れる表情は緩み解れかけていた。流れのままに首が傾くと、朱に染まった髪が流れ落ちてゆく。包み隠された表情からは、募り溢れる疲労が覗き見える。心を鷲掴む渇望感に操られるように、華奢な腕が闇の奥へ伸ばされる。
半ば無意識のうちに手繰り寄せたのは、使い古した小鍋。僅かに残った穀物や摘み取ったばかりの薬草を落としては、そっと静かに火に掛ける。ふわりと漂う香りに意識を擽られつつも、簡素かつ手短な料理の完成を待ち望む。銀髪の半妖は沸き立つ小鍋を見つめながらも、日中に訪れた湖畔の風景に思いを馳せていた。微風に運ばれた花々の香り––––澄み渡る湖に映し出された山間の風景––––そして、心地よき東屋での安息に満ちたひと時––––。謎多き領域での思い出が、波打つように押し寄せる。いつしか心の内側には、柔和な細波のような安らぎが溢れ返っていた。湖畔に思いを馳せながら、夜空を彩る星々を仰ぎ見る。脳裏を塗り染める彩りが、溜息とともに夜闇に塗れ溶けてゆく。
銀髪の半妖は簡素なスープで身体を温めつつも、数日に渡る山の生活の回想に耽っていた。春を迎えたばかりの野山を行き来して、薬草類の収穫に明け暮れる日々は、今日で一旦幕を降ろす。未だに長い冬の面影が残る環境では、得られる成果は限られていた。それでも、今期初めての山仕事としては、それなりの収穫に恵まれていた。充分な仕事を済ませた事実を確かめると、ついつい安堵してしまう。そうは言えども、次なる課題が控えているために、安心するにはまだ早い。収穫物の鮮度が落ちる前に、適切な処理をする必要がある。そう考えると、明日の早くには山から離れなくてはならない。
銀髪の半妖は山と麓を行き来する生活を送っていた。その目的は、山に自生する薬草を麓の街に持ち帰り、諸々の薬を作り上げることにある。素材の吟味や採集のみならず、薬の調合に至るまでの一連の作業に精を出す。そのような仕事に勤しむ者たちは、薬師として定義されていた。
この仕事に追い立てられる生活は、決して楽なことではない。広大な土地を巡回して、細やかな環境の整備をしながらも、必要な採集に明け暮れる。街に戻れば休む間もなく薬仕立てに取り組んで、課されたノルマに四苦八苦する。そして、材料が尽きたなら、すぐさま収穫の旅路へと駆け戻る。多忙極まりない生活が落ち着くのは、雪に閉ざされた冬場のみ。その時期を迎えると、収穫地が閉ざされるために、緩やかな街の生活に没頭することができる。つい先日までは、忙しさとは無縁だったのだが、虚しきことに冬は彼方へと旅立った。春を迎えたばかりの今、またしても苛烈な日々が始まろうとしていた。
この近辺の野山一帯は、銀髪の半妖に任された収穫地だった。山の深部に関しては、ある種の曰く付きの土地として恐れられている。不穏な物語に彩られた禁足地やら、危険な野生動物の棲家など、尽きることなき驚異が溢れる魔境ともいえるだろう。
中々に手厳しい仕事ではあるのだが、銀髪の半妖はこの生活に細やかな愛着を抱いていた。何にも変え難い喜びは、人が溢れる街から離れて、孤独な時間を確保できることにある。街は決して居心地の良い場所ではない。至るところに溢れているのは、混血に対する偏見やら差別意識ばかり。表向きには差別的行為は禁忌とされているものの、どうやら混血に限っては、その対象から外れているようだ。聞こえの良い道徳的観念は、所詮は都合よき支配のための愚かしい方便に過ぎない。嘲笑に満ちた迫害やら、暴虐の標的にされることなどは、ある意味日常茶飯事だと言える。苦渋に満ちた生活を思い出すだけで、ついつい仄暗い絶望に蝕まれてしまうばかりだった。
忍び寄る苦悩を払拭するように、銀髪の半妖は夜空を仰ぎ見た。濃厚な闇に散りばめられた星屑の輝きが、脳裏を擽る湖畔の印象を炙り出してゆく。不意に思い出すことは、去り際に抱いた細やかな未練。視界に映し出された風景に、募る思いを重ね合わせると、内側と外側の境界が朧げに崩れてゆく。見ることのできなかった湖畔の星空は、一体どれだけ美しいのだろうか……。甘い溜息に混ざる独白が、白息とともに夜空に昇り溶けてゆく。澄み渡る水鏡に描かれた夜の風景を夢想しながらも、心に揺らぐ幻想に意識を委ね浸り込む。
静寂に満ちた夜に沈み溶けてゆくように、だらりと仰向けに横たわる。視界の中心に輝くのは、闇夜を照らす夜の象徴たる光球。いつの間にか視線を奪われると、このまま引き摺り込まれそうになってしまう。光の奥に待ち受けているのは、現実とは異なる世界だと願いたい。
––この光は……あの湖畔にも届けられているのだろうか……
溜息混じりの独白が、白息に溶けてゆく。夜空に瞬く星々の虜にされた瞳は、柔らかな彩りに染まっていた。その煌めきの源は、脳裏に宿る不思議な湖畔の幻影。星空に重なる水面風景の彩りが、奇妙な奥行きを描き出す。波打つ波紋が押し寄せると、現実と幻想の境界が曖昧に暈される。銀髪の半妖は抗うこともなく、流れのままに満ち足りた孤独の泉へと耽り落ちていった。
疲弊しきった心身は、既に限界を迎えていた。寒々とした夜空に別れを告げて、寝床に入るや否や、瞬く間に夢の奥へと沈み落ちてゆく。幾重にも過ぎさってゆく断片を見送って、やがては深淵の彼方へと通じる境界を突き抜ける。
辿り着いた極地には、日中に訪れた湖畔にも似た風景が待ち受けていた。透き通った水面には、美しき花々が咲いている。穏やかな波紋が押し寄せると、一つの花だけが形崩れて歪みを帯びてゆく。それが意味することは、鏡像に描かれた幻影。もう一つの花だけは、決して崩れることもなく、泰然とした佇まいで咲き誇っていた。やがて小波が去りゆくと、鏡映しの花が鮮明な姿を取り戻す。そして二つの花々は、互いが支え合うような趣で、気高く美しく咲き誇る。本来の在り方を取り戻したことを示すように、混ざり合う香りが風に揺られて散ってゆく。
波打つように押し寄せる香りに意識を奪われると、次なる変容が訪れる。不思議な波紋に攫われて、更なる深みへと誘われる。いつの間にか周囲には、金色に染まる薄霧が立ち込めていた。金の粒子に包まれて、意識が朦朧と崩れてゆく。あらゆる境界が擦れてゆく最中には、なんとも不思議な感覚が押し寄せてきた。夢の中で夢を見て、更にその夢の中を通じて、果てなき彼方へと沈み落ちてゆく。際限なき没入を続けながらも、全てが曖昧に暈される。肉体や精神のみならず、意識までもが原形を失い始めてゆく。
意識も心も魂も、全てが泉に溶けてゆく。最後に残された砂粒ほどの自我が捉えた感覚は、あまりの甘美な輝きに満ち溢れていた。溢れる光に包まれると、この世界から切り離されてゆくような印象に飲み込まれる。流れのままに別の時空へと導かれ、全てが崩れ溶けてゆき、光の一部と化してゆく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます