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 湖畔の朝は今日もまた、彩り溢れる静寂に染まっていた。人魚は滑らかな岩山に腰を降ろして、心地良さげに微風を浴びていた。ふわりふわりと髪を撫でられる感覚に浸っていると、朝ならではの煌めきが、そっと控え目に忍び寄ってくる。うっとりと瞳を蕩けさせて、漂う香りを確かめる。鼻腔を擽る彩りには、季節先取る花々の囁きが滲んでいた。


 朝の湖畔でゆったりと、芳しい香気を楽しむこと。その嗜みは人魚にとって、何にも変え難い大切な悦びだった。次なる微風が吹き込むと、更なる彩りを帯びた香りが押し寄せる。岩山を取り巻くような旋風が生じると、はらりはらりと幻の花弁を散らせるように、濃密な香りが降り落ちる。意図して人魚に届けようと、計らう風が悪戯に髪を煽り立て、遠く彼方に吹き去ってゆく。


 凪に漂う芳香に、人魚は心を傾けた。波打つ香りは濃厚に、奥深くへと染み渡る。健気な草木の彩りが、内に揺らぎを滲ませる。香りの土台を支えるのは、彼方から届けられた苔や樹木の香り。その構造を飾り彩る芳香は、湖畔に咲き誇る美しき花々の思い。舞台のような奥行きに支えられた花たちは、いつにも増して麗しき対話の色を滲ませていた。なんとも健気で美しき一幕を想起させる印象は、人魚をいじらしげに刺激するばかりだった。


 黒薔薇はいつも素直じゃない。本当は黒睡蓮の側に、そっと寄り添っていたいはず。香りの奥に滲むのは、もどかしき苦悩。ずっと離れた場所でしか、見守ることできない……。そんな悲しき現実が、いつだって黒薔薇を苦しめている。


 それに比べて黒睡蓮ときたら、いつだって黒薔薇のことが気になって仕方がないらしい。香りを通じた便りを受け取っては、素直かつ純真な思いを隠すことなく、今日もうっとりと蕩けている。夢見心地に耽る印象は、何とも健気で痛ましいほどに可愛らしい。きっと黒薔薇はいつも側にいる……そう深く信じてやまない様子が窺えた。


 そんな二種類の花々は、相容れぬ場所に咲いている。それでも、鏡面に映し出された姿を通じることで、しっかりと頑なに寄り添い合っている。どうにも可愛らしくて仕方ない在り方を、人魚は微笑ましげに見守っていた。


 魚たちと一緒に泳ぎ、微風に宿る思いを受け取って、時に花々の元へと会いに行く。数多の細やかな喜びに浸りつつ、人魚は穏やかな湖畔を慈しむ日々を送っていた。そして、皆々から受け取った思いを胸に抱き締めて、湖畔のために解き放つ。並々ならぬ思いは祈りへと姿を変えてゆく。そして、この領域を震わすほどの歌へと変容を遂げてゆく。奏でられたその歌は、音として響き渡ることはなかった。その代わりとして湖畔一帯に轟くのは、大気を揺さぶる念の振動だった。


 人魚は生来言葉を発することができなかった。しかし、種族的本能たる歌への渇望は、決して消えることはなかった。心に抱く旋律は、思念を通じた歌へと姿を変えてゆき、湖畔一帯を余すことなく震わせる。歌を通じて無意識のうちに滲み溢れゆく思いは、なんとも真摯で慎ましやかな温もりに染まっていた。人魚の歌は麗しき湖畔のために捧げられた、慈愛に満ち溢れた祈りそのもの。自身が及ぼす影響を知ることもなく、人魚はただひたすらに、思念を介した歌を奏で続けてゆく。


 愛する湖畔に咲き乱れる花々を慈しみ、湖に生きる水棲と戯れては、心に宿るイメージを念に乗せて解放する。それこそが、人魚の生活の全てだった。一人静かに満ち足りた孤独に包まれて、穏やかな時の流れに浸る日常が、今日もまた同じように続いてゆく。そして、いつもと何も変わらずの安寧に満ちた煌めきが、湖畔を包込むように塗り染めてゆく。その中心たる象徴は、慈愛に満ちた祈りに耽る人魚。


 風の残した芳香が、乾き始めた髪から溢れ出す。あまりの心地よき香りとともに、草木や花々の物語が内側へと響き染み渡る。香り捧げた者たちへの思いを抱き締めると、人魚は深い感謝の念を解き放った。すると、その姿を包み込むように、柔らかな光が滲み出していった。天に輝く光球から照射された光の影響か、それとも内側から溢れ出した光なのか、そのどちらかは分からない。謎めいた光が湖に溶けてゆくと、ゆったりと穏やかな波紋が広がっていった。


 思いのままに奏で紡いだ思念の歌は、気が遠くなるほどの長い時間をかけて、ようやく終焉を迎えた。そっと瞼を沈めては、心に響く余韻に浸り落ちてゆく。人魚は内なる安寧に沈みながらも、ゆったりと深く呼吸を整えた。天を彩る光球は、既に頂近くまで上昇を遂げている。甘く濡れていた黒髪は、すっかりと乾ききっていた。


 ぐったりと力の抜けた身体は、今にも崩れ落ちそうだ。少し乾き過ぎてしまったが故の、水棲特有の困憊具合を滲ませるように、人魚はふらふらと軽い眩暈に揺れていた。力を取り戻そうとするように、天高くに掌を組み合わせては、弓なりに背を伸ばす。全身に巡る気血の温もりを確かめると、そっと腕を降ろしては、勢いを付けて突き立てる。

  

 ぎゅっと岩山を蹴り込むようにして、人魚は空へと向かうように飛び上がった。天に掲げられた光球を貫かんばかりの勢いで、真っ直ぐに上昇を続けてゆくものの、やがて虚しく限界点へと到達する。滑らかな放物線を描きながらも、真っ逆さまに水面に向かい落ちてゆく。着水の瞬間に迸る衝撃が、煌びやかな水飛沫を轟かせる。水が織り成す舞踏の中心には、水飾りの王冠が掲げられた。人魚の帰還を歓迎するような象徴は、虚しきことに瞬く間に崩れ落ちてゆく。散りゆく残滓はたちまちに、次なる姿に変容を遂げてゆく。


 湖の中心で崩れ溶けた王冠は、大きな波紋を生み出した。どこまでも広がる柔らかな細波は、岸辺の彼方まで届けられてゆく。滲み広がる穏やかな細波が、西岸に咲き誇る花々を柔らかに撫で付ける。心地良さげに揺れる黒睡蓮の花々は、人魚が残した思いに応えようと、より一層濃密で幻想的な彩りを滲ませた。水に溶け出した儚き香りの寵愛を受けて、人魚は奥深き深淵を目指して沈んでゆく。まるで、何者にも侵害されることなき夢の中へと向かうように。

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