黄金の薔薇

灰間恍

1章

1

 人里から遠く離れた山奥には、果てしなく深い森が広がっていた。光さえもが届かぬ風景は、奥深き暗緑に支配されていた。数多の巨木が鬱蒼と生い茂り、重なり合った無数の枝葉が複雑な模様を描いている。全てが包み隠されていて、あらゆる道が閉ざされた重厚な薄闇。忘れ去られた廃虚に眠る古井戸があるとするならば、その最深部には似通った風景が待ち受けているのだろうか。全てが静止した領域を塗り潰しているのは、異界に通じる境界のごとき静寂。


 一度足を踏み入れたなら、二度と外には出られない。監獄と化した樹海には、野生動物さえもが固く立ち入りを拒んでいた。狂い乱れた磁場の影響で、方向感覚は不明瞭に暈されて、光さえもが遮られている。この状態では、時間感覚さえもが狂わされ、頼り縋れる全ての感覚が封じられてしまう。そのような状況に陥ったら最後、深淵から押し寄せる恐怖心を餌にして、鬱蒼たる樹々は獰猛な牙へと姿を変えてゆく。そして、全てを跡形もなく闇の奥へと葬り去ろうと襲い掛かってくる。

 

 閉ざされた監獄たる領域に、一縷の風が流れ込む。唐突に訪れた不可視の来訪者は、唯一の抜け道を辿るように、立ち止まることなく彼方へと去っていった。流れる風を追い掛けるかのごとく、騒めく枝葉が儚き音色を響かせる。それが細やかな合図となり、薄闇に閉ざされた領域に僅かな色が落とされる。


 ほんの僅かな木漏れ日が注ぎ込み、玄に塗り潰された樹々の姿を炙り出す。過ぎ去った風の痕跡が、厳重に秘匿されていた迷宮模様を描き出し、彼方へと続く抜け道を暴き出してゆく。冥漠たる樹海を超えることができるのは、樹々を掠めて濾過された微風だけだった。

 

 薄闇に溶けて吹き去る風の音に、揺らぐ枝葉が見送りの音色を重ねてゆく。振り返ることなき微風は、意図せず森の香気を身にまといながらも、延々と続く迷宮を超えていった。やがて、行く手に待ち受ける闇の奥底から、錯覚じみた妖しき揺らぎ押し寄せる。


 乾き擦れた微風に、奇妙な音像が混ざり合う。招き寄り添うような旋律は、潤いを予感させる微弱な持続音。混ざりゆこうとする二つの音が、一つ和声へと調和を遂げてゆく。そして、暗緑染めの薄闇に、新たな色が滲み出す。薄闇に秘匿されていた風景が、徐々に露にされてゆく。周囲を埋め尽くしてた森の風景は、いつの間にか姿を消していた。入れ替わるように現れたのは、虚ろげな光を飲み込んだような濃霧。

 

 霧の奥から溢れる輝きが、次々と勢いを増してゆく。森を抜けて辿り着いた微風が吹き込むと、何かを包み隠すような霧は、徐々に流れて消えてゆく。暴き出された隙間から、天へと昇りゆこうとする光が覗き込む。温もりを伝える輝きに包まれて、次々と霧が晴れゆく。全てが明るみにされてゆくと、今にも朝を迎えようとする風景が現れた。


 上昇を続ける光源が、全てを余すことなく照らし出している。すると、対極たる位置に広がる大地にも、負けず劣らずの煌めきが覗き込む。二極の膨大な光が溢れると、この領域の素性が露にされてゆく。天上に昇りゆく光球と、大地を彩る巨大な水晶。それこそが二極の光の正体。稜線から姿を覗かせる光球と同期するように、広大な水晶は輝きを増してゆく。煌めく表皮を覆い隠した薄霧が、徐々に薄れ晴れてゆくと、光の奥底から不思議な面影が現れる。


 煌めきに染まる結晶の内側には、奇妙な風景が秘匿されていた。独立した世界が封じられたような印象は、夜空の彼方に輝く遊星のようでもある。天から注ぐ光量が増すほどに、その確かなる正体が明るみにされてゆく。結晶を彩る不思議な象徴は、暁光に染まる天空を中心とした山間の風景。その印象は、精巧な絵画のようではあるものの、決して意図的に創り出されものではない。悪戯に流れ込んだ微風が、確かな事実を裏付けるようにして、描き出された風景に微かな歪みを滲ませる。すると、加速する変容を阻害するように、僅かに残された霧が押し寄せる。迷霧の吐息が溢れると、乱れ崩れた風景は余すことなく塗り潰されてゆく。


 しかし、その隠蔽は長くは続かなかった。静止することなき時の律動を刻むように、樹海を超えたばかりの微風が流れ込む。柔らかな慰撫が押し寄せると、薄れ去りゆく薄絹に秘匿されていた水晶が、白日の元に晒される。暴き出された絵画たる光景は、何ごともなかったかのように、歪み一つなきの状態に修復されていた。


 流れ移ろう時の流れに促されて、天に灯された光が明るさを増してゆく。地上を塗り染めていた霧は、去りゆく夜を追い掛けるように、徐々に姿を消していった。そして、大地に煌めく水晶が、完全なる形で明らかにされてゆく。降り注ぐ光を受けて、今この瞬間に存在する光景を描き出し、時の経過とともに姿かたちを変え続ける。世界を映し出す鏡玉たる輝きの正体は、澄み渡る湖––––水面に映し出された鏡像だった。


 煌めき溢れる水面には、東雲模様が描き出されていた。果たしてどちらが現実で、どちらが幻影なのだろうか。この風景を前にしたならば、そんなことさえも分からなくなってしまう。仮にそうだとしても、構図の中心から離れるほどに、明確な差異が明らかにされてゆく。その原因を生み出すのは、鏡像ならではの歪み。


 どこからともなく押し寄せる波紋の悪戯を受けて、描き出された風景が甘い揺らぎに崩れてゆく。現実との乖離を及ぼす抽象性が滲み出すと、留まることなき幻想の彩りが加速する。歪壊を続ける風景は、今にも跡形もなく崩れ散ろうとしていた。


 北方の一角に向かうに連れて、その傾向は色濃さを増してゆく。原因を生み出しているのは、湖の終端たる一点に構えられた関門。外界へと通じる清流に向かう水は、水鏡の一部たる役割を終える際に、別れを意味する彩りを滲ませる。それこそが、鏡面を彩る美しき歪みを生み出していた。


 彼方を夢見て踊り戯れる水は、今日もまた旅路へと向かい流れて去ってゆく。麓に通じる荘厳な滝を超え、大いなる流れと調和しながらも、やがていつの日か、終着点たる大海へと辿り着くだろう。果てなき旅路を見送る湖は、次なる再会を祈りながらも煌めきを増してゆく。


 西側の一角を覆い尽くす風景は、曇りなき静寂に包まれていた。その印象はどこかしら、緻密な抽象絵画にも似ていた。切り取った一瞬を描いたような構図は、水面に数多の水墨を滴り落とした風景そのものだった。不思議な円形模様の数々が、優雅な漆黒の彩りを滲ませている。朧げな薄霧の悪戯で、細部は包み隠されているものの、それも長くは続かない。降り注ぐ光の寵愛に恵まれて、今にも本来の姿が露にされようとしてた。


 薄霧の奥から現れた彩りが、水面を飾り立ててゆく。暴き出された光景は、異界風景を描いた抽象絵画のような印象を見せ付けた。その中心たる象徴として水面を飾り立てるのは、黒き奇妙な水紋の数々。それらは決して流れ薄れることもなく、絵画のように静止していた。崩れることなき円の交錯が、光を浴びて煌めく姿を見せ付ける。まるで、生命の息吹を予感させるかのように。


 その正体は、漆黒に染まる円葉の数々。植物らしからぬ色彩は、禍々しくも可憐な印象を帯びていた。あまりにも不思議な色調は、朝焼けが織り成す彩りとも、周囲を囲む濃緑の山々とも、何もかもが異なっている。まるで、過ぎ去った夜に取り残されたかのように、黒き柔らかな姿を見せていた。


 水面を覆う円葉の隙間から、垂直に掲げられた穂先の数々が現れる。天に祈りを結ぶ儀槍のように、凛と気高く伸びるのは、今にも咲き乱れそうな花茎。綻びかけた蕾の中には、既に満開に咲き誇る花々が、数少なくも見受けられた。柔らかな光に染められた花弁は、放射状に開きながらも燦然と輝いている。その淑やかな花もまた、水面を覆う円葉と似通った色に染まっていた。黒き不思議な色調に、仄かな紫を滲ませる花––––その姿は、水辺に咲き誇る睡蓮そのものだった。


 微風に揺れる花々––––黒睡蓮から滲み出した香りが、甘く切なき彩りを漂わせる。すると、機を見計らったかのような微風が、大気に溶け出た香りを運び去ってゆく。流れ吹き込んだ先には、水辺から離れた岸辺の風景が広がっていた。その一角に咲き誇る花々も、水面彩る黒睡蓮と似通った色調に染まっていた。


 ゆらりゆらりと麗しく、微風に揺れる花々が気高き姿を見せ付ける。すらりと伸びる枝を飾り立てているのは、数々の鋭い棘。あらゆる接触を拒絶するような印象は、儚きまでに仄暗い危うさを秘めている。しかし、その在り方は本質から離れていて、ある種の虚飾であることが容易く理解できる。殺伐とした姿を和らげるのは、若葉を塗り染める煌めき。溢れる滴る朝露を身にまとい、光を求めて葉々を広げる佇まいは、なんとも健気で瑞々しい。黒き艶やかな葉々を辿り昇った先には、更なる美しき象徴が飾り立てられている。それは、豊かなるドレープに彩られた品良き優雅な花々。


 あまりにも麗しき植物は、なんとも不思議な色を帯びていた。棘や枝葉のみならず、蕾や花までもを塗り染めるのは、慎ましやかな闇の色。影と同化するような謎めいた姿は、作り物のようでありながらも、確かな生命の息吹を宿していた。ひっそりと身を忍ぶように咲いているにも拘わらず、不思議な魅力を漂わせる植物。その正体は、漆黒に彩られた薔薇。あまりにも麗しき芳香を漂わせながらも、祈り耽るかのごとく風に揺れていた。


 岸辺を塗り染める黒薔薇は、水面を望むように咲いている。流れ漂う微風を浴びながらも、届けられた香りの芳翰を受け取っては、宿る思いに酔いしれる。そして、心托した芳香を解き放ち、風に預けて水面に咲く花の元へと送り返す。


 果てしなく深い森に濾過された微風が、香りに託された便りを運び流れてゆく。種類異なった二つの花々は、風を介して静かに語らうように、互いの香りを贈り合っていた。流れ舞い散る微風は、思い溢れる芳香を運び届けて弧を描く。


 朝を迎えたばかりの湖畔には、なんとも美しき香りが溢れ返っていた。その様子を見守る存在が、南岸の片隅覗き見える。寂寞たる在り方で鎮座する静物は、古き小さな城を思わせる建造物。品の良さげな石造りの佇まいは、厳かな社にも似ていた。小さな小さな古い城は、遠い昔の記憶の残り香を懐かしみ、祈り紡ぐように湖を見守っている。奥深き悲哀の色を滲ませる姿は、忘れ去れた墓標のようでもある。


 稜線を突き抜けた光球が、余すことなく湖畔を照らし輝かせる。溢れる光が行き渡ると、至るところから朝の息吹が溢れ出す。全てを柔らかに包み隠していた霧は、徐々に薄れ消えてゆく。そして、静かなる一日の始まりに相応しい彩りが、全貌を現した水鏡に描き出されようとしていた。現実に揺らぐ朝の湖畔風景と、水面に描き出された幻想たる鏡像が、同じ一つの領域に寄り添うように共存する。まるで、夢から醒めたばかりの湖畔を象徴するかのごとく、全てが摩訶不思議な彩りに染まっていた。


 現実と幻想の中間に位置する一点に、新たな雫が落とされる。どこまでも彼方を貫くほどの波紋が広がると、次なる幻惑の彩りが滲み出してゆく。巻き戻すことのできない時の律動が、遠く彼方へと行き渡るように波及する。そして、美しき香りをまとう微風が、螺旋を描き散ってゆく。

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