第5話 胸に秘めたもの

 あの女の子が、古びた本を持ち去ってしまった。

 煙幕のようなものを撒かれたと思ったら、いきなりあんな罵声を……思いもしなかった。

 一体、どこに行ってしまったんだろう。

 もしかして、古びた本を読んでアルゼル山に行った?

 でも、魔物がいて危ないのに一人で行くなんて――思わず指先に力が入る。手の平に爪が痛いくらい食い込んだ。

 試練を受けるために行ったとしたら……ボクは、どうしてここに残ってるんだろう。

 ゆっくり指先を開けると、じんわり赤い。

 追いかけないと――みんな、反対するのかな。

 剣術も、魔力量も劣ってる、魔法習得だけ褒められた落ちこぼれが、山を登るなんて……無謀だって。

 次の日、ボクは学校に向かう道中の周りを気にしつつ登校した。

 あのくすんだ灰色のローブを探す。

 もし見かけたら、古びた本を取り返したい。


「おはようございます。レオンさん」


 学校の前にある坂道の手前で、セリーネさんがいつもの上品な声で挨拶をくれた。

 昨日の話もあって、どこか気まずさや変な緊張感を持ってしまう。


「お、おはよう、セリーネさん」


 真っ直ぐに顔を見られず、またボクはセリーネさんの綺麗な脚辺りに目を向けた。

 他の生徒も、セリーネさんに挨拶をしている。丁寧に、挨拶を返す。

 ただでさえ遠い存在なのに、一気に遠のいた気がした。


「……レオンさん、どうされましたの?」


 ボクが俯くのは、よくあることなのに……胸が小さく脈打つ。

 宝石みたいに綺麗な瞳が、ボクを心配そうに見てくれている。


「ううん、なんでもない。ありがとうセリーネさん」


 本当は婚約者のことが気になっている。


「セリーネ様」


 渋い声が聞こえた。

 真っ黒な礼服を着たおじいさんが、腰を低く頭を下げている。


「あら……なにかしら、ノーマン」


 セリーネさんは吐息交じりに、前でそっと腕を組んだ。


「エドリアン様がお会いに」

「しつこいですわね。試練を終えてから会いに来てください、伝えてくださる?」

「それが、どうしても会いたいと仰りまして……」

「むぅ……」


 エドリアン様が会いに来ている。セリーネさんの婚約者が。

 頭や胸の中が、ざわざわ。ううん、ジリジリと太陽の光に焼き付けられたように熱く、煮えたぎっている。


「……セリーネさん、あの――」

 

 セリーネさんに言いかけたところで、町中に地響きが起きた。

 空高くビリビリと振動する。

 今まで聞いたことがない底から這い出るような遠吠えも聞こえた。


「なんですの?!」

「これは……魔物やもしれませぬ、セリーネ様、それにレオン様、学校へ避難ください」


 ノーマンって人、さらっとボクの名前まで把握してる……。

 町中が騒ぎ始めて、登校中のみんなが一斉に坂道を上がっていく。


「えぇ、レオンさん学校へ急ぎますわよ」

「う、うん」


 セリーネさんに引っ張られ、坂を上る。

 その途中で、ボクは少しだけ振り返った。

 町の景色が低くなる。

 赤い屋根の家々が崩れてしまい、黒い煙と揺らめく炎が空に昇っていくのが見えた。

 町を囲む城壁の一部も叩き壊されている。

 魔物――頭の上に二本の角を持ち、大柄で頑丈な肉体を紫色の被毛でつつんだ二足歩行——が暴れる光景。

 魔物なんて、学校の授業でしか聞いたことがない。

 あれが……魔物。


「兄ちゃん! セリーネさん! こっちこっち」


 坂の上からユリウスが素早く手を振って、ボクたちを待っている。

 校門前で両膝に手を添えて、一旦呼吸を整えた。


「うぅ、ユリウス、リディアは?」

「まだ学校に来てないよ。ちょっと遅れるって言ってたから、今日は別々。もしかしたら、まだ家に……」

「そんな、じゃあ」


 ユリウスは激しく足踏みをして、坂を下りたがっている。


「先生がっ! 絶対に行っちゃダメだって。父さんたちがなんとかしてくれるかもだけど、心配だよ!」

「うん……」


 リディアが、ユリウスの大切な彼女が巻き込まれていたとしたら……。


「おふたりとも、とにかく落ち着いてくださいな。きっとリディアさんも警備隊に保護されていますわ」

「ううぅー! リディアぁ!」


 ユリウスは拳を震わせ、ずっと落ち着かない。


「……アルゼル山の魔物かもしれませんわ」

「山から、下りてきたの?」


 今も静かに、雲の中に隠れるほど大きなアルゼル山が、町の騒ぎを見下ろしている。

 山の麓に、ボクは目を細めた。

 古びた本と似た、ぼんやりとした光が、遠くからも分かるほど輝いていた。


「おそらくですけど……祖父がよく、山には恐ろしい魔物がたくさんいる、と話していましたから」


 町のみんなが、大人が、魔物と戦っている。

 武力をもたない人も、井戸から汲んだ水で燃え盛る炎を消そうと動き回っていた。

 ボクひとりが行ったってなんにもできない。

 でも、足は勝手に、坂道に向かう。

 行かないと……だめな気がして、ボクはユリウスの手を強く掴んだ。


「ユリウス」


 不安な時でも真っ直ぐな瞳を見て、名前を呼ぶ。

 ユリウスは何を言わずとも、眉をキリっと上げて強く頷くと、手を握り返してくれた。


「兄ちゃん!」


 ボクたちは、セリーネさんや先生の声を置き去りに、坂道を駆け下りる。

 足がもつれそうでも気にせず、風になった気分で走った――。


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