ひび割れ

久保ほのか

第1話

昭和二十五年、梅雨の終わり。 東京の片隅、闇市の残骸を間借りして作られた飯場の暖簾を、男がくぐった。


「お味噌汁、まだありますか?」


夜の帳が降りきる前、空はまだ青暗く、雨は弱いが止む気配を見せない。雨粒を肩に乗せたまま、遠藤は朗らかに微笑んだ。


中にいた安岡芳子は、咄嗟に男の輪郭を見た。年齢は三十半ば。目元が柔らかく、声も通るが、口角の上がり方がわずかに狂っている。警戒すべき種類の男だ、と即座に判断した。


「……あるにはあるよ。ぬるいけどね」


「ぬるくても、味噌汁は味噌汁ですから」


笑顔のまま、木の椅子に腰かける遠藤。芳子は無言で器を差し出した。

飯場の隅では、三田寛が黙々と釜を磨いていた。


「そちらの方、左利きですか?」


唐突に遠藤が言った。


「……は?」と三田。


「包丁の置き方。包丁の刃先が手前を向いてましたよ。左利きの人のやり方です」


「どうでもいいでしょ」 芳子が間に入る。


「癖なんだよ。いちいち見なくていい」


「すみません。ただ観察するのが癖で。職業病みたいなもので」


「職業って、何やってるの」


「近くでサーカスやってるでしょう。そこで手伝ったりいろいろ。でも強いて言うなら…」


遠藤はふと天井を仰いでから、にっこり笑って言った。


「観客です」


「は?」


「観るのが仕事なんです。人が何かを壊す瞬間とか。泣く前のまばたきとか。面白いんですよ、ああいう一瞬って」


三田が手を止めた。


「観てどうするんだ」


「笑うか、ため息つくか。ああ、この人はどこで折れるのかなあって考えるのが好きなんです。壊れかけたものって、いい音がするでしょう?」


芳子が立ち上がる。


「……帰ってくれる?飯が不味くなる」


「嫌われちゃったなあ。傷つくなあ」


言いつつ遠藤は味噌汁を飲み干す。


その時、店の外で怒鳴り声と悲鳴が響いた。誰かが殴られ、喚いている。


三田が咄嗟に立ち上がる。「見てきます」


遠藤は、ふっと笑う。


「たぶん、あれ、さっき俺がちょっと押した奴だ。愚痴を聞いてやっていてね。仕返しがしたいって泣いてるから、人の拳は殴るためにあるんだぜって言ってやったんだ」


芳子が静かに言った。


「……何がしたいの」


「面白いこと。退屈が死ぬほど嫌いでね」


「誰かが壊れても?」


「むしろ壊れたほうが、綺麗ですよ。完璧なものはつまらない。ひび割れの音が一番好きだ。ものが壊れるときの、鈍い音がね。人は壊れるときに、本当の自分になるんですよ」


芳子は静かに包丁を手に取った。


「……もう来ないでおくれ。もし来たら、その時は毒入りの味噌汁出すよ」


「うれしいなあ。優しさって、形が歪んでるほどいいですよね」


そのとき、三田が戻ってきた。


「大丈夫でした。怪我してただけです」


遠藤は立ち上がり、濡れた傘をくるりと回して開いた。


「ごちそうさま。また、来ます。面白いものが観れそうだから」


目元の柔らかな大きな目が、三田をじっと見つめていた。


「来なくていい」


芳子が言った。


遠藤はひらひらと手を振りながら、店の外へ消えていく。


雨の中、傘の中で遠藤がぽつりと呟いた。


「また面白いことを探さなきゃ」


ひび割れの音が、耳の奥でこだました。

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