第3話 侵食と交差

「おはようございます。」


そう話したのは、僕ではない――彼女だった。

時間は午後二時。朝でもないのに形式外の挨拶をされた僕は、戸惑いながらも反射的に返す。


「おはようございます。」


インターホンを押して立つ彼女は、昨日あれほどの異常さを見せたはずなのに、

まるで何事もなかったかのような顔で、そこにいた。

僕は一呼吸置いて、驚いた表情を作ってみせた。


彼女は、僕を知ろうとするかのように、少しだけはにかんで言った。


「この世界は全部、虚像なの。君にも、わかるよ」


その囁きに、僕は恐れた。

昨日の出来事が脳裏にフラッシュバックする。身震いとともに神経を指先へ集中させ、強く拳を握った。


彼女は、そんな僕を見てまた微笑んだ。

その笑みが、僕を侵してくる。


体が重い。

このまま、彼女に吸収されてしまうのではないか。

そんな気がした。


彼女の首筋。華奢な足。無造作に揺れる髪。

そのすべてが、僕を虜にしていた。


ドクン、ドクン。

心臓の音が僕の全身を蝕んでいく。


彼女が僕の手に、指を絡めてきた。

気持ち悪い。差別していたはずの存在に、誘惑されている。


……なのに、僕は彼女に触れたいと感じてしまった。


この気持ち悪いほどの感情を、彼女の体温として、確かに感じてしまった。



流石にまずいと思った。

僕は反射的に、扉を乱暴に閉めた。


……正しかった。あれで良かったはずだ。


だけど、彼女に触れられた感覚が、手の隅々まで焼き付いて離れない。

逃げなければ。逃げなければ、僕も侵食されてしまう。


嫌悪の刺激を懐に仕込んだ彼女は、確かに僕の“空洞”を埋める存在だった。

胸の奥で、何かがざわついた。


それが、僕をもっと深いところへと引きずり込んでいった。



翌朝。

目が覚めたとき、部屋の中に閉じ込められているような感覚に襲われた。


昨日の記憶が脳内に浮かぶ。

あの異常な邂逅。そして交わりのような、夢のような感触。


僕は彼女に捕食されていた。


嫌悪はいつしか愛に変わり、現実が虚像へと反転していく。


そんな妄想に浸っていると、携帯が鳴った。

サークルの友達からの通知だった。


しかし、恐怖に駆られて、携帯の電源を切ってしまった。

これまでなら軽く返せていたやりとりさえ、今は異様に感じられる。


醜いのは僕なのか?

いや、違う。

彼女に出会ってから、僕の奥にある何かが、現実との電波を断とうとしていた。



生臭いまま、大学へ向かう。


「なんかあった?」


友達が心配そうに声をかけてくる。


「……大丈夫」


わずかに違和感のある声で答える。

昨日のことは忘れよう。大丈夫だ、うまくやれている。


僕は、綺麗なままで、世界を愛していたい。

誰かに“おかしい”と思われたくない。

一般的でいたい。


呼吸を整える。


そのとき――


ささやく声が耳に群がり、卵を産みつけるように意識を侵してくる。

脳裏を突き抜け、離れないあの声。

重苦しい空間。見るものすべてが間違っている気がする。


異質な思考が、浮かんでは消えていく。

嫌悪だったはずなのに。



帰宅途中、僕はまた、彼女の姿を探してしまっていた。

……戻れないのだろうか。


彼女に出会ったのが、間違いだった?

そう疑問に思うけれど、確実に言えるのはひとつだけだ。


彼女は、僕の世界の姿を変えてしまった。


全部、彼女が悪い。

あの法師のような魅力が、悪いんだ。

だから僕は、悪くない。


……そう、思いたかった。



夜。布団に沈んだ僕は、彼女の“共鳴音”を探している。

声が、欲求を昂らせる。


無意識に、右耳を壁に押しつけていた。

ギチギチと、歯軋りを繰り返す。


毒々しいほどに、僕は彼女の虜になっていた。



侵食のスピードは、加速していった。


ある日、彼女はついに――バイト先にまで現れた。


彼女は四つ這いで、僕の周囲を這いずり回る。


誰もいないはずの空間をじっと見つめる僕に、パートの主婦が怒った口調で声をかける。


「お客様がいらっしゃいますよ。気づいてますよね?」


僕はハッとしてレジから離れ、バックヤードへ逃げ込む。

すると彼女は、ため息混じりに言った。


「最近……疲れてるの? 自分が誰か、とか……わかってる?」


僕は、答えられなかった。


彼女の名前も、素性も、何も知らない。

けれど、確かに“彼女の音”だけが、僕の頭の奥で反響し続けている。



薬局はそこまで忙しくはない。

だけど、レジ担当の負担は大きい。


普段なら集中できるはずの仕事も、

いまはその集中さえ首輪のように感じられて苦しい。


退屈と妄想の深淵へ――僕はどんどん堕ちていく。


現実か妄想かも、わからない。

彼女は、本当に存在しているのだろうか?


不安で、全身が震える。


……もう、彼女がいなければ、生きていけない。



バイト終わり。

あの四つ這いの造形美が、どうしても脳裏から離れなかった。


気がつけば、シミだらけのドアの前に立っていた。

野良猫のように気まぐれに戻ってきた、僕。


けれど、彼女は違う。


――何者なんだ、あの女は。

もう、わからない。


だから僕は、強い怒りをぶつけた。

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