二十八.結界(1)
平日とはいえ観光地だ。通りを見渡して一人も目に入らないなんてありえない。実際、行きに通ったときにはかなりの観光客の姿があった。
(結界……?)
そうとしか思えなかった。
鬼の罠かと疑いかけて、すぐにそれはないと考え直す。二人きりで話したいと要望したのは鬼だが、千暁たちに嘘をついて目的地を決めたのはあずさだ。
おそらく千暁たちと別れたときの会話を聞かれ、先回りをされたのだろう。さらに言えばこんな大規模の結界を即興で張れる家門は一つしかない。
闇雲に走って逃げても無駄だと察して、あずさはその場に踏みとどまった。せめてもの抵抗で何もない空間を睨みつけて語りかける。
「祈羽杜家の方ですよね。わたしになんの御用でしょうか」
ややあって、景色の一部が剥がれ落ちるように崩れ、袴姿の人々が姿をあらわした。数は十名ほど、男女比は男性が多めで、おそらく全員が退魔師だ。
その中に見知った顔を見つけてあずさは奥歯を噛みしめる。楠宮家の隠し通路であずさを襲った退魔師の悟朗。そして、佳乃の姿もあった。
「どうしてあなたまで……」
「楠宮の隠し通路で悟朗に取引を持ちかけられたの。見逃す代わりに、いま祈羽杜家が抱えている問題を教えるって。驚いた。《無角の白鬼面》が実は人間で、うちで最強の退魔師だなんて。話を盛るにも限度があるでしょって思っちゃった」
佳乃は悪びれたふうもなく言って髪を掻き上げる。
魂の色はやや緊張しているのか黄色がちらつくものの、全体的には落ち着いた緑色だ。意外にも、あずさに対する敵意は感じられなかった。
「祈羽杜家の問題でしたらわたしもうかがっています。才能のある者が生まれにくくなっていると。それで千暁さんに普通の人間の体を取り戻してほしいって」
「――それが大問題なんだよ」
悟朗が会話に割り込んできた。佳乃が一瞬、迷惑そうな眼差しを彼に向けたが、譲ることにしたらしい。悟朗がまだわかってないのかよと言いたげに見下してくる。
「千暁様が人の身に戻った結果、能力を失ったらどうする? あの方の才能は鬼の魂あってものかもしれない。あるいは鬼の魂を失ったとたんに急激に老化して死んでしまうかもしれない。そうなったら祈羽杜家にとってはどれほどの損失か……」
「その可能性でしたら存じています」
さっき鬼から聞いたとは言わなかった。既にじゅうぶん検討し、結論が出たかのように装ってみせると、悟朗が忌々しげに舌打ちした。
「でも、わからないことがあります。どうやって鬼とコンタクトを? 鬼があらわれたことはありましたが、あれ以来千暁さんは鬼を抑えつけていたはずです」
「……それ、あなた」
控えめな口ぶりで佳乃が口を挟んだ。
えっ、と声を漏らすあずさに、気の毒そうな眼差しを向けてくる。
「千暁様の中の鬼じゃなくて、あなたに入り込んだ鬼の一部が動いていたのよ。祈羽杜家の結界の内側からあやかしを招き入れたのも、祈羽杜家の保守派と手を組んだのも、全部あなたを通してやっていたの」
「……わたし、が?」
「気づいていなかったのね。まあ鬼も千暁様に気づかれないよう慎重に動いていたでしょうし、たぶん眠っているときに出てきていたのでしょうからしかたがないわ」
あずさは絶句した。
さきほど鬼があずさの口を使って「それ以上近寄るな」と発言したときに、その可能性に気づくべきだった。鬼はやろうと思えばあずさの体を乗っ取れたのだ。
文句の一つも言いたい気分になったが、あいにくとあずさの中にいた鬼のかけらは既に浄化されている。次に言える機会があるとしたら、千暁に触れて鬼食みの力を使うときくらいだろう。
無論、この状況をくぐり抜けられたらの話だ。
「おしゃべりはこのくらいでいいだろう。鬼食みを捕らえろ」
気難しそうな顔に銀縁眼鏡をかけた男が言った。
三十代の半ばくらいだろうか。命令口調から判断するに、ここにいる者たちの中では首領格のようだ。名を受けた他の退魔師たちがじりじりと左右に展開していく。
どうにかしてこの場を切り抜けなければならない。だが、できるだろうか。半人前以下の、落ちこぼれの自分なんかに。
あずさはワンピースのポケットに入れた形代紙を意識した。
白玉を呼び出そうと思えばできるだろう。しかし多勢に無勢だ。これだけの数の退魔師を相手に、兎の式神を一匹呼び出せたところで何ができるだろうか。
わからない。わからないが、抗うことをやめてはいけない。
あずさを落ちこぼれと見なさず、才能を見いだしてくれた師であり夫でもある人の期待を裏切ってはいけない。
「急急如律令――白玉!」
「はいぃ、白玉におまかせあれ!」
ぽんっと虚空に真っ白い兎が出現した瞬間、退魔師たちも刀印を結んだ。
急急如律令のもとに、思い思いの式神と式鬼が術師のかたわらに出現する。どれもとても強そうで、彼らの相手を白玉にまかせるのは我ながら酷だと思えた。
それでも兎が果敢に立ち向かおうとした、そのときだった。
「急急如律令――巨門!」
凜とした声が響いた次の瞬間、あずさの目の前に巨大な影が出現した。
大きなミミズクの式神だ。ただしそれはあずさに背中を向けている。
「しがみついて!」
意味がわからないながらも、声には妙な強制力があった。あずさは無我夢中でミミズクの背中に手を伸ばし、両手でもふもふの羽毛を鷲づかみにした。
直後、ミミズクが大きな翼を広げて空へ舞い上がった。あずさは風に飛ばされないよう顔を伏せ、必死に式神の背中にしがみつく。足元よりもはるか下の方から罵声じみた声が響いてきた。
「佳乃! どういうつもりだ!」
「追跡しろ! 絶対に逃すな!」
えっと思って首をもたげたとき、「よっこいしょ」とのんきな声が聞こえてきた。
ミミズクの背に佳乃がよじ登ってきていた。彼女は安定する位置を確保して息をつくと、あずさと視線を合わせてウインクする。
「迫真の演技だったでしょ? 主演女優賞狙えるわ」
「佳乃さん、どうして……」
「悟朗を逃がしたところまでは本当。どういうつもりか探りを入れたかったから。その後に千暁様の話を聞いたら、あなたを敵視する理由がないってわかっちゃった。環くんじゃなくて千暁様の御寮だって言うじゃない。先に言ってよ、もうっ!」
バシッと背中を叩かれて、あずさはうっと呻いた。冗談にしては威力が強すぎる。あやうく息がつまりかけた。
「あずしゃま、大丈夫でしゅか!?」
「う、うん。なんとか」
白玉が心配そうにのぞき込んでくる。彼女も無事に乗れていたようだ。
痛みに苦笑しつつ、あずさはミミズクがどんどん高度を上げていることに気づいた。
「ちょっと高すぎませんか?」
「この簡易結界、簡単に作れる代わりに上がガラ空きなの。このまま結界を出て、環くんたちに合流しましょう」
「――そうはゆかぬ」
頭上から濃い陰が差す。
はっとして顔を上げると、あずさたちのさらに上を大きな騎馬が駆けていた。
装飾の多い馬具をつけた黒馬に、甲冑をまとった武士が跨がっている。その姿は普通の人間よりも一回りは大きい。式神だ。
上方から接近するなり、大きな太刀を振り下ろしてくる。
「まずい――避けて!」
佳乃の声に応じてミミズクの体が右に傾き、急速に滑空する。
しかし間に合わない。太刀が大きな翼を斬りつけた瞬間、ミミズクは制御を失って浅草の街へと墜落した。
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