十四.烏の庭

 その日はあまり眠れず、気がつけば朝を迎えていた。

 壁掛け時計を見上げてみれば、針は五時を少し過ぎたところだった。最近寝てばかりだったのでひさしぶりに起きられた気がする。

 あずさは浴衣を脱ぐと、襖のそばに畳まれていた着物に袖を通した。布団を畳むと、部屋の一角にある鏡台に向かう。廊下で誰に会うかわからないので髪をとかして寝癖を直してから部屋を出て、洗面所で歯を磨いて顔を洗う。そうして部屋に引き返す途中で倫世と出くわした。


「おはようございます、御寮様」

「おはようございます、倫世さん。あの、千暁さんは大丈夫ですか?」


 手首に深々と刺さったかんざしを思い出しながら訊ねる。

 自分のせいで怪我をしたかと思うと申し訳なくて、せめて応急処置がされていると確認が取れるまで気持ちが落ち着かない。


「大丈夫というのは、どのような意味でしょうか?」


 倫世がきょとんとしているということは、彼女は千暁が怪我をしたことは知らされていないようだ。


 彼女が千暁のかんざしの性質を知っているかどうかはわからない。仮に知っていたとしたら、鬼の力を弱めるために刺したことまでバレてしまうだろう。

 一時的とはいえ、当主が鬼に体を乗っ取られたなど一大事だ。

 だから一部の人間、たとえば環のような身近な人間にしか教えていないのかもしれない。

 だとしたらいまのは失言だ。あずさは慌てて話題を変えた。


「な、なんでもないです。ところで、わたしにもお手伝いできることはありませんか?」

「前にも申しましたけれど、御寮様にお手伝いなんてさせられません」


 そこをなんとか、と食い下がったが、倫世は笑顔で却下した。仕事中の彼女をこれ以上引き留めるわけにもいかず、あずさは部屋に引き返した。

 そのとき、通路の先を奇妙な人影が横切った。ちょうど丁字路になったところだ。

 最初は幼稚園児くらいの子どもかと思ったが、たぶん違う。自分が見たものが信じられなくて、あずさは早足になって人影の後を追いかけた。


「カァーッ、今日も働くぞ」

「カァーッ、今日も忙しいぞ」


 小さな和装の二人組は、そんなことを言い合いながら歩いている。後ろ姿を見ただけでも人間の骨格ではないし、真っ黒い頭も毛髪ではない。

 あずさは緊張に胸が高鳴るのを感じながら「あの」と声をかけた。

 くるりと振り返った二人組は、やはり人ではなかった。


 硬そうな羽毛に包まれた顔面に黒い両眼、鋭い嘴。

 烏だ。烏人からすびととでも言えばいいだろうか。人間と鳥の中間のような骨格をしており、和服を着て二本の足で立っている。

 八咫烏の眷属だろうか。祈羽守家の人々と違って人の姿にならなかった者たちがいるのかもしれない。一人は寝癖のように頭頂部の羽が立っていて、もう一人は眉間に傷痕が斜めに走っている。


「おはようございます。わたしはあずさと申します。先日から、こちらでお世話になっています」


 烏人たちが少し困惑した様子で顔を見合わせる。


「カァーッ、おまえ知ってたか?」

「カァーッ、おれも知らん。あずさは新入りか?」

「え、ええ。そうです……お忙しいのでしたら、何かお手伝いしましょうか?」


 忙しいと口に出してしまうほど人手、あるいは烏の手が足りないのだろうと思って切り出してみた。

 彼らはまた顔を見合わせた。顔が烏なので表情が読めず、どきどきしてしまう。


「いいだろうあずさ。餌の作り方を教えてやるぞ」

「おれたちについてくるんだぞ」


 わかりやすい先輩風を吹かせて、烏人たちが先導していく。

 いったいなんの餌だろう。

 あずさがわからないながらも追いかけると、小さな後ろ姿は庭に出ていった。建物を迂回して、勝手口のようなところに入っていく。

 そこは小さな厨房だった。土間になっているので結構古そうだ。普段の食事の準備には使用していないらしく、誰もいない。


「カァーッ、ここが餌の調理場だ」

「餌というのは?」

「カァーッ、烏の餌に決まっているぞ」

「我々のように進化できなかった、下等な眷属たちだぞ」


 どうやらこの屋敷には彼らとはまた異なる烏がいるらしい。庭にいた烏たちのことだろうか。

 あずさは部屋から持ちだした襷紐で袖を持ち上げると、烏人たちに訊ねた。


「烏って何を食べるんですか?」

「カァーッ、基本的には肉食だが、なんでも食べるぞ」

「カァーッ、でも食べちゃいけないものもあるぞ」

「ちなみにおれは牛肉や豚肉が大好きだぞ」

「でも野菜や果物も食べた方がいいぞ。バランスは大事だぞ」


 交互に語りながら、烏たちは業務用の冷蔵庫から牛肉の塊を取り出す。差しの入ったランプ肉だ。これを細かく切り、湯通ししてから与えるらしい。

 彼らは慣れた様子で踏み台を持ってくると、それに乗って作業台に向かった。

 寝癖のある烏人が最初にお手本として烏の食べやすい大きさに切ってみせてくれた。あずさはそれを参考にさせてもらいながら、大きな肉切り包丁で肉を切り落としていく。

 切った牛肉は傷痕のある烏人が大鍋に沸かした湯にくぐらせ、湯切り網ですくい上げて一抱えほどのタライへ放り込んでいく。

 そうしている間に、寝癖の烏人が慣れた手つきで大粒のマスカットを房から外し、別のタライに放り込んでいく。マスカットも烏たちの好物らしい。

 ふと、傷痕のある烏人が冷ました肉をぱくりと嘴に運んだ。あずさが目を丸くしていると、烏人は呑み込んでから気まずそうに言う。


「カァーッ、これは毒味だぞ!」

「カァーッ、そうだ。毒味は大事だぞ!」


 寝癖の方もそう言って、マスカットを嘴に放り込んだ。

 たぶんいつもやっていることなのだろう。面倒見の良い先輩たちからあずさもすすめられたが、丁重に断った。

 それからあずさは烏人の先輩たちにならってタライを抱え、勝手口から外へ出た。

 烏たちがいるという裏庭に回ると、小さなブナ科の雑木林があらわれた。

 烏はどこにいるのだろう。

 あずさはふと目をこらしてみて、ぎょっとした。木々の枝のあちこちに、数え切れないほどたくさんの烏たちが留まってこちらに眼を向けている。よく訓練されているのかまったく鳴かないので気づかなかった。


「カァーッ、あんまり近づくと羽をついばまれるぞ」


 寝癖の烏人に注意をうながされ、あずさは一歩引いた。あずさに羽は生えていないが、気をつけた方がいいだろう。


「あまりなついていないのですか?」

「カァーッ、こいつらは千暁様にしかなつかない」

「おまけに今日は千暁様じゃないから機嫌が悪いぞ」


 烏人たちは手前にある木製の台にタライを置いた。ここが餌場らしい。


「いつもは千暁さんが餌やりをされてるんですか?」

「朝は千暁様がされることが多いぞ」

「夕方は俺たちか倫世がやっているぞ」


 だとしたら、新参者のあずさが餌を持ってきたのは、烏たちにとっては気に食わないかもしれない。これは早々に退散した方がよさそうだと思いながらタライを台へ下ろした。そのときだった。


「ゴリョウ」


 と声がした。

 人間の声ではない。どこか抑揚がなくぎこちない発音のそれは、烏の鳴き声だった。

 それに連鎖反応を起こすように、烏たちがゴリョウ、ゴリョウと鳴き、枝に留まったまま翼をバサバサと羽ばたかせる。

 烏人たちが不思議そうに顔を見合わせる。


「カァーッ、御寮って誰だ?」

「カァーッ、ここには俺たちしかいないぞ」


 ふと、作業台へ一羽の烏が舞い降りてきた。

 見た目は都市部でもよく見かけるハシブトガラスによく似ている。嘴が太く、湾曲しているのが特徴だ。ただし、眼の色はハシブトガラスと違って朝日のような橙色だ。

 その烏が小首をかしげて何やら訴えてきている。餌の催促だろうか。

 あずさはタライから湯がいた牛肉を一切れつまみ、手のひらに載せるとおそるおそる烏の方へ差し出してみた。

 思っていたとおり、烏が作業台の上をぴょんぴょん跳ねて近づいてくる。そうして嘴の先で肉を加えると、器用に移動させて呑み込んだ。


「可愛い……」


 あずさが思わずつぶやくと、烏が「カワイイ」と真似をした。遅れて、他の烏たちもカワイイ、カワイイと連呼しながら作業台の周りに舞い降りてくる。

 あっという間に漆黒の群れに囲まれてしまった。

 だが、最初に木々の枝に留まっているのと見たときのような恐怖は感じなかった。カワイイ、カワイイ、と鳴きながら飛び跳ねる烏たちは陽気に喜んでいるようにも見えて、単純に微笑ましい。

 カァーッ! と烏人たちが驚いたように仰け反り、勢い余って尻餅をついた。


「烏がなつくなんて、あずさが御寮様……!?」

「カァーッ、大変だ、御寮様に手伝わせてしまったぞ!」

「千暁様に焼き鳥にされてしまうぞ!」

「炭火焼きは嫌だぞ! 何焼きでも嫌だぞ!」


 烏人たちは互いに抱きしめ合ってガタガタと体を震わせる。


「あの、黙っていてすみません。千暁さんたちにはわたしから言っておきますから、絶対大丈夫ですから……」


 あずさは全力で謝罪した。

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