十二.鬼にかんざし(1)
目を覚ましたときには既に日が高くのぼっていた。
いつの間にか布団に入って寝ていたあずさは、隣に敷かれたもう一組の布団に目を向ける。そちらも使用した形跡はあったが、一緒に夜を過ごしたはずの千暁の姿は見当たらなかった。
床の間に和風デザインの置き時計があり、針は昼過ぎを指していた。
こんな時間まで寝こけていたなんて。なんともいえない、いたたまれない気持ちになる。
いつもならば朝五時に起きて庭や玄関、道場などの掃除をしていたはずだ。それからお手伝いさんとともに食事の準備をし、終わったら父たちが使う退魔道具の手入れをし、形代用の和紙を切る。それがあずさの朝の日課だった。
何もせずに昼まで過ごすのは本当にひさしぶりで落ち着かない。ただ、体調は昨日よりもあきらかによかった。
この屋敷の人にはあずさが起きているかどうかはわかるらしく、まもなくして倫世が朝食の準備ができたと知らせにやってきた。
それで彼女に千暁の行方を訊いてみると、彼は結界の巡回に行ったという。当主らしい仕事は表向きの当主である環に任せ、自身は無数の式神や式鬼を駆使して関東中の結界を見張り、ほころびがあれば修復しているのだという。
千暁がほとんど寝ずに仕事へ行ったと知ってあずさは後ろめたさをおぼえた。
「お気になさらなくてよろしいんですよ。御寮様は病み上がりでいらっしゃるんですから」
「ごりょうさま?」
「当家では当主の奥方を御寮様と呼ぶならわしがあるんです」
現代でもそんな時代劇の世界のような慣習が残っているとは、やはり同じ退魔師でも血統が神話まで遡れるような家系は違うようだ。
そんな格式ある家の当主と、自分のような落ちこぼれが契約結婚なんてしてよかったのだろうか。判断を誤ったかもしれない、とあずさは尻込みしたくなった。
「それに、千暁様はそれほど睡眠を必要とされている方ではありませんから」
「ショートスリーパーということですか?」
「いえ。千暁様は二つの魂を宿しておいでですので。八咫烏の血筋ゆえに日が出ている時間に強く、鬼の魂を宿しているゆえに夜の闇にも強いのです。ですが、昨晩は少しお眠りになったようですよ。御寮様が気持ちよさそうに眠っているのを眺めていたら眠気がうつったとおっしゃってました」
うふふ、と倫世が嬉しそうに笑う。
千暁に寝顔を見られていたのかと思うと猛烈に恥ずかしくなってきた。よだれを垂らしたり、いびきをかいたり、寝言を言ったりしなかっただろうか。寝相も心配だ。かといって、変な寝方をしていなかったか訊ねる勇気はない。
朝食を兼ねた昼食を取った後、あずさは倫世に仕事をさせてほしいと頼んだ。
何もしないで過ごすのは落ち着かないし、ただ世話になっているだけでは申し訳ない。しかし倫世には「ではまず体調を万全な状態にお戻しくださいませね」と笑顔でかわされてしまった。もう元気ですと言っても無駄だった。
夕方くらいに帰ってきた環にも同じことを頼んでみたが、同じだった。
「いやあ。僕の判断であずささんに仕事を与えたら、勝手なことをするなって形代に戻されちゃいますよ」
倫世も環も、千暁があずさに仕事を与えていい、手伝わせていいと言わないかぎりは折れてくれそうもない。攻略すべきは千暁だ。
その千暁が帰ってきたのは、夕食も入浴も終えた頃だった。
彼が影の当主だ知らない人間と会っていたのか、あずさの部屋にやってきたとき彼は《無角の白鬼面》を被っていた。思い出したように仮面を外すと息をつき、前髪を掻き上げた。
「待たせてしまったか?」
「そういうわけでは。その、お、おかえりなさいませ」
楠宮家で当主の父が仕事から戻ったときのように、正座で指先を畳について一礼する。すると千暁は目を丸くした後、あずさにならって正座をした。
「ただいま帰った」
と言って頭を下げる。今度はあずさが面食らう番だった。まさか当主が契約妻相手に礼儀を返してくれるとは思わなかった。
しかし一方で、彼はあずさの夜更かしを盛り上げてくれるような、気さくで優しい一面もある人だ。本来はとても面倒のいい人なのだろう。
だからといって、世話になりっぱなしというわけにはいかない。
「鬼食みの力は、いつお試しになりますか?」
あずさが鬼食みの力で千暁の中に棲まう鬼の魂を浄化し、報酬として退魔の術を教わる。そういう取り引きであり、契約結婚はあくまでその副産物だ。彼の要望に応えられるかどうかをあずさは保障できないが、できるかぎりの力は尽くすつもりだ。
「体の具合はいいのか?」
「お気遣いありがとうございます。もうすっかり元気です。千暁さんや倫世さんのおかげです」
「そうか。ならよかった」
千暁は表情をゆるめ、正座を崩した。
「おまえの体調が戻ったら少しずつ試したいと思っていた。おまえがいいのならはじめよう。まずは、いつも浄化の力を使うときと同じことを俺にしてみてくれないか」
「わかりました」
陽翔という少年の霊を成仏させたときと同じ振る舞いをすればいいのだ。
あずさは千暁に向き直ると、一歩ぶんほど近づいて座り直した。向かい合うには近すぎる距離感になってから両腕を彼へ伸ばす。そうして腕を千暁の背中へ回したところで、はたと気づく。
見事に、正面からひしと抱きつくような格好になっている。ふだん霊体に対して同じことをしてもなんとも思わないが、千暁は生身の男性だ。
「し、失礼しました!」
慌てて飛び退こうとしたら、千暁があずさの背中に腕を回してきた。離れようとしたのに、逆に抱き寄せられる。
あずさは勢いあまって彼の胸元に顔から突っ伏してしまった。着物に香木を焚いているらしく、ほのかに白檀の交じった肌の匂いをまともに吸い込み、それがまた余計にあずさの羞恥心を刺激した。
「別に失礼だとは思っていない。鬼食みの力はいつもこの体勢で使っているのだな?」
「……はい」
恥ずかしくて顔から火が出そうだ。心臓の鼓動もあずさの一大事を察して太鼓を乱打しているかのようにうるさくなっている。
これだけ密着していれば特大の心音が伝わっていそうだ。だが千暁は気づいているのかいないのか、あるいは気にしていないのか、淡々と感想をつぶやいた。
「いまのところなんともないな。着物の生地が分厚いのか? 脱いでみるか」
千暁はそう言ってあずさの背中から腕を離した。
えっ、と思ったのもつかの間だった。千暁は半歩下がるようにして体を離すと、右腕を袖の中へ引っ込め、そのまま内側から襟を広げて着物の上半身を脱ごうとする。
それを、あずさは声なき叫び声をあげながら襟を掴んで阻止した。全力だった。
「ぬ、脱がなくてもできると思います! 手で触れればいいだけなので!」
「そうか。わかった」
千暁が何事もなかったかのように右腕を袖に通し、袂から手を出した。ひとまず、脱ぐのはやめてくれたらしい。
あずさはほっと息をついた。危ないところだった。たとえ上半身だけだとしても、こんな間近で裸を見せられたら色香にやられて倒れてしまうかもしれない。
(言えばわかってくれる人だからよかったけれど……この人、自分がイケメンだという自覚がないの?)
不老で美貌を保ったまま長く生きているのだから、女性から好かれたり色目を使われたりした経験もたくさんあったはずだ。それで無自覚とは、天然なのだろうか。
あずさは環の不在を呪いたくなった。式神の権限内での行動しかできなくとも、彼ならば術者の奇行には鋭く突っ込んでくれただろう。
「では、手を」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます