一、亭子の院の御時にや
○本文
亭子の院の御時にや、色好みなる男の長らく女を思し付けど、え得まじう過ぎ給へるあなり。夏の夜のいみじう短きに盗み出で給ひて、率ていづくにか去ぬべくもなく漫ろに憧れ給へるほどに、盗む人におはせば、そこらの、ただうつし心なく狂ひに狂ひて漁りし人々のみ侍れば、二人ながらなべて安からぬ心地おぼえ給ひて、すさまじくあばれたる、怪しげなる家に紛れ給ひぬ。いみじう蓬生に埋もれたらむ所なれば、藁葎のいたく茂りて空覆ひしに混じり給ひて進めるに、女「日頃より腹を病みてにや、今うたて起こり侍るやうなれば、いみじう痛くぞ侍る。あな悩まし、やがて下ろし給へ。」と聞こゆれば、男「何か、異しき事に侍らずや、家におはしたるほどのさしも侍らじを、などて今になりてかかることのたまはむ。」など託言がましうおはせば、「はや下ろし給へ」とて、男、せむ方なければ下ろし給ひつ。しましありて、なほ止むまじきを心細く見え給へれば、衣脱ぎ給ひつるを、袿の紅にていみじう濡れたらむ御覧じて、「恐ろしや、思ひ給へ寄らぬわざかな、こはいかに」と呆れ給へれば、「げに、不浄のことの疾う終はり侍りぬべかりけるを、今はいかがなるにこそ」と額髪の汗にいとこちたく濡れ果てながら、こよなう惑ひ聞こえたるに、ひたぶるに広ごりて、小さき池のやうに溜まりぬ。ともかくもえせで、もてあつかひ給へるほど、くちなはのねぢけたるやうに草むら分けて流れてぞ去にけり。女の物も言はず、絶え入りぬるなめり。男、流れに沿ひ給ひてゆくゆくに、遣水のいみじう汚きに落ち合ひぬるを見給ひぬ。草むらのいたく高くなりて、小林にやと御心惑ひのみしつつ、更に進み給へば、遣水の帯のやうなる狭きほどなれど、青黒までにいみじう濁れば、底の深さすべて見え給はじをむくつけくなむおぼえ給へるに、なま腐りたる肉叢と思しきものなど、朽ちぬる骨の、あるは稍々肉付きたらむの濁れる水に浸りたる御覧じつるより、口塞がりて、倒れ転び給ひつつ、胸潰るる心地のみいみじうし給ひたれば、「こはなにぞ、かうむつかしくあるまじきわざにも遭へるかな。かかるをこなるわざのせねばこそあらめ、今はた如何にせむ」と本意なくぞおはしたるに、猫と思しき声のいよだちたる聞こえぬれば、男、おぼろけならぬ気色覚え給へど、なほ声を尋ね給ふべしとて草のいみじう高きを分けつつ進め給ひぬるに、声のうたたあるまで怖ろしう成りて、稚児の痛ましく叫び散らしたらむにも似たるを、いと覚束なくて、流石に分け入り給ひたれば、ほどなき庭の草やや枯れぬるに出で給ひぬ。見巡らし給へば、藁の薄き敷かるる所にて皮の剥がれし緑子のやうなるのあふのきに手か足かと思しきをあがきつつ、口と見えぬる隙よりいみじう怪しげなる音の凄きをいたう泣き泣きてぞありける見ゆれど、心にもあらず憧れ果て給ひて、せちに進みに進み給ふあまりにやありけむ、なべてうつつなくぞなり果て給ひて、手にて抱き給ひぬる。かかるままに、かのゆゆしき物よりけがらはしき血の滝のやうに落ちぬれば、あたり霧りわたりて、血くさきことかぎりなきに、抱き給へる手にて、いたう血にまみれたるをふと二つに裂きて喰ひ給ひぬれば、つと倒れ給ひて、口開きたれど物ものたまはず。しばしあるに、喰はれしの二つのまた一つになりて腹破れて這ひ出づれば、草のいみじう高きに隠れて更に姿も見えず。
いみじう短ければ、月の山際に入り果つるつとめて、人して例の院探らせたるに、男の腹破りて死に給ひ、女の息もせで、ただ絶え入りぬるに見えたれど、つくづくと見れば、ただ寝入りたるになむ。家に帰りて二、三日、とかく願立ちて御修法などせさせたるに、辛うじて甦れど、ありけることのつゆ思ひ出でぬもいかがとこそ。かくて過ぎぬるままに、思はぬにさることになりぬれど、盗み給ひし方のはやう失せ給ひしかば、いかなればかく成り果てむにつけてもいみじう聞きにくきことぞ出で来たりけれど、平らかに身々となりて、生まれし子のことうるはしうまでに侍りぬるを、人々ただ喜び聞こえてなむ。かの女、うるはしう見えける子のいかになりけむ、知らずとか。
こは深草少納言の六条院におはせしほどに「つれづれなれば」とて、候ひたる人々して聞こえ給ひける御物語りにて、いみじうむつかしければ、人々あまたあれか人かにおぼえ給ひけるに、面白しと思ひ奉りぬれば、書きとどめ聞こえ侍りつ。男、女の言の葉、さにもあらじを、物越しなれば、聞き成して認め聞こえつるのみ多からむを、せむすべなくになむ。
○現代語訳(あくまで参考に)
亭子院の治世だったろうか。好色の男が長くある女性を思い慕っていたが、なかなか手に入れることができずにいた(ように見える)。ある夏の夜、(夜が)非常に短い中を、男は女を盗み出し、どこへ行くともなく連れてさまよい歩いていた。ところが、(男の人は)盗み人であるため、正気を失い狂って(男に盗まれた女と男(この二人)を)探し回る人々が多く居て、男も女も不安な気持ちになった。しばらくして、うす気味悪く、怪しげな家に紛れ込だ。藁、葎の類は大変生い茂って空を覆っているのを分け入ると、女は女が「以前からお腹を患ったことでしょうか、今はいよいよ発作しましたので、大変苦しいのです。すぐに下してください」と申し上げると、男は「変なことではなかろうか。家にいたときは大丈夫そうなご様子なのに、どうして今になって初めてそんなことを仰いますのでしょうか」などと愚痴っぽくいたが、女が強いて「下ろしてくださいませ」と言って、男はしかたなく下ろした。しばらくすると、やはり(女の)腹の痛みは治まる様子もないのを心細く(男は)思ったので、女が衣を脱いだところ、袿は紅色(血)に染まりきっていた。それを見た男は「恐ろしい、思ってもいなかったことですなぁ、今のはどういうことですか」と呆れたら、女は「本当に、穢れたこと(月のこと)はとっくに終わったはなずなのに、今のは一体」と、(女は)額髪は汗で大変濡れられていてながら、甚だしく狼狽えるうちに、血は一面に広がって小さな池のようになった。(男は)どうしてよいかも分からず、(女を)取り扱いに困る時に、血の流れが草をかき分けて、まるで捩れる蛇のように流れていった。女は物も言わず、絶え入るように意識を失ってしまった。男はその血の流れをたどって行き、それが汚らしい遣水と合流したのを見た。草むらは高く、これは小さな林かと心を迷っていながら、男は更に前に進んでいた。遣水は帯のように細かったが、それが青黒の色までに非常に濁っていて、底が見えないことを大変気味悪く覚えた。そこに腐りかけの肉の塊や、枯れた骨、或いは半ば肉のついた骨が浸っているのが見えて、男は何も言うことができず、倒れて、転んだようにして気を失いそうになった。「これは何だ。これほど気味悪くてあってはならぬ目に遭うのは、あんなに馬鹿らしいことさえしなければ(よいのだが、そうではないので)今となってはどうしようもない」と悔いていると、猫のような声が聞こえた。男はただならぬ気配を感じて、怖く思ったが、やはり声を追うようとして大変高い草をかき分けて進むと、声はますます怪しく恐ろしくなっていった。それは、痛ましいほどに泣き叫ぶ稚児のようにも聞こえたが、男はこの上なく心細かったが、それでもやはり進んでいたら、草が少し枯れた狭い庭に出た。(男は)周りを見回ると、藁を薄く敷かれたところで、皮の剥がれた赤ん坊のようなものが、腕か足かも分からぬ形のようなものでのたうち、口らしき隙間から不気味でぞっとさせるような声を発して激しく泣いていた。このありさまを見ると、男は正気を失ったようにそれ(赤ん坊らしき物)を抱き上げた。すると、その忌まわしきもの(赤ん坊らしき物)から汚らわしい血が滝のように流れ落ちてきたので、あたり一面に霧がかかったようになり、血生臭さが限りなく漂う中で、(男の赤ん坊らしき物を)抱き上げた手で、(男は)ひどく血まみれになったそれ(赤ん坊らしき物)をふたつに引き裂いて食べてしまった。そして突然、男はどっと倒れこみ、口を開いているが何も言わくなった。しばらくして、食べられたもの(赤ん坊らしき物)がふたつからまたひとつになり、(男の)腹を破って這い出てくると、ひどく高い草の中に隠れて、二度と姿を見せなかった。
夜があまりにも短くて、やがて月は山に沈み、明け方となった翌朝、人々を遣わして先ほどの院を探し回らせたところ、男は腹を破られて死んでおり、女もまた息がなく、絶命しているように見えたが、よく見ると、(女は)ただ眠っているだけだった。家に戻ってから、さまざまに祈祷や修法などを施したところ、(女は)ようやく意識を取り戻したが、あのときの出来事はまったく覚えていなかった。こうして時が過ぎた後、女は思いがけず身ごもっていたことが分かった。だが、(女を)連れ出さした方(男)はすでに死んでいたので、どうしてこんなことになったのか(どのように懐妊できたのか)のようなことについて色々大変聞くに堪えない噂もあったが、(女は最後に)無事に子を産み、その子はしっかりとしていて立派なこともなので、(噂もなくなり)人々はただただ祝い事を申し続けたのである。しかし、あの女と上品に見えた子が一体どうなったかについては、誰も知らない。
この話は、深草少納言が六条院にいたころ、「退屈なので」と言って、語ってくれた御物語である。あまりにも恐ろしかったので、人々は正気を失って上の空に成っているような顔だったが、結構面白いと思ったので、書き留めておくことにした。男と女の言葉も、実際はこんな風ではなかろうが、物越しに聞いた話であったので、聞いてそれだと思って、書き留めたことが多いだろうから、どうにもならぬことであった(ので、下手なところがあれば勘弁してくださいませ)。
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