第18話禁断の輝きと、心の渦
「…何なのよ、もう」
莉奈の震える声が、俺の胸に冷たいナイフのように突き刺さる。彼女の綺麗な瞳から、堪えきれなくなった大粒の涙がぽろりと零れ落ちた。その透明な一粒が、まるで引き金になったかのようだ。俺の中でかろうじて理性を繋ぎ止めていた、最後の細い糸がぷつりと音を立てて切れた。
もう、無理だ。綺麗事じゃ何も解決しない。そんなことはとっくにわかっていたはずだ。嘘を重ね、その場を取り繕い、先延ばしにしてきた結果がこれだ。目の前で泣いている莉奈の姿が、俺の無力さと愚かさを、容赦なく突きつけてくる。
俺は真実が知りたい。たとえそれが俺の心をズタズタに引き裂くものであったとしても。この中途半端な関係を続けるくらいなら、その方がずっとましだ。
「莉奈、ちょっと待ってろ」
俺は莉奈の華奢な腕を掴んだまま、もう片方の手でポケットからあの銀色のイヤリングを取り出した。そして誰にも見えない角度で、まるで何かに取り憑かれたかのように素早く自分の左耳に装着した。許されることじゃないとわかっている。これは、彼女の心を土足で踏み荒らす、最低の行為だ。それでも、俺は、もう引き返せなかった。
ひんやりとした金属の感触。その直後、世界がぐにゃりと歪んだ。
視界の端に砂嵐のようなノイズが走り、耳の奥でキーンという不快な高周波が鳴り響く。目の前にいる莉奈の輪郭が一瞬ぼやけたかと思うと、次の瞬間、彼女の全身から淡い光がオーラのように立ち上るのが見えた。
それは単色ではない。いくつもの色が複雑に、そして激しく混じり合っている。まるで嵐の前の空のように、刻一刻とその色合いを変えていく。これはもっと混沌とした、感情の嵐そのものだった。
彼女の胸の中心からは、まるで夕焼けの太陽のような温かいオレンジ色の光が放たれている。それは間違いなく、俺への昔から何も変わらない純粋な好意や親愛の色だ。その温かい光を見つけた瞬間、俺の心は少しだけ救われたような気がした。よかった、まだ嫌われてはいない。俺たちの根っこは、まだ繋がっている。
だが、その温かい光を覆い隠すように、その外側にはいくつものネガティブな色が渦巻いている。俺と静が一緒にいるのを見た時の、チリチリと胸を焦がすような嫉妬の赤。俺が何も話してくれないことへの深い悲しみを表す、雨雲のような暗い青。そして、俺の得体の知れない「力」へのほんの少しの恐怖を示す、氷のような薄い水色。それらの色が互いに反発し混じり合い、彼女の心の中で激しい渦を作っていた。
そして何よりも俺の心を抉ったのは、そのオーラ全体がまるで自信を失ったかのようにか細く、そしてゆらゆらと頼りなく揺らいでいることだった。静が言っていた、嘘をついている時の揺らぎとは違う。これは彼女自身が自分の感情の置き場を見失って混乱している証拠だ。俺という存在が、彼女の中で「信じたい幼馴染」と「得体の知れない何か」との間で引き裂かれ、その矛盾に苦しんでいる証だった。
「…っ!」
俺は息を呑んだ。これが莉奈の心の中。俺が彼女にこんなにも辛くて苦しい思いをさせていたのか。ただ彼女を傷つけたくない、守りたい、その一心でついてきた嘘が、逆に彼女の心をこんなにも複雑な色に染め上げてしまっていたなんて。
情報量が多すぎる。他人の感情がダイレクトに視覚情報として俺の脳に流れ込んでくる。頭がガンガンと痛む。これがこのアイテムのリスク。だが、今はそんなことどうでもよかった。
俺はただ、目の前のこの温かいオレンジ色の光を失いたくなかった。この光さえあれば、きっとやり直せる。そう思った。
「…ごめん」
俺の口から、ようやくその一言が漏れた。それは今までのようなその場しのぎの謝罪じゃない。彼女の心の渦をこの目で見てしまったからこその、心の底からの言葉だった。
「ごめん、莉奈。お前をそんな顔にさせたかったわけじゃ、ないんだ」
俺は掴んでいた彼女の腕の力をそっと緩めた。莉奈は俺のいつもと違うその真剣な声色に、少しだけ驚いたような顔をしている。彼女のオーラがほんの少しだけ揺らいだ。赤と青の渦が一瞬弱まったように見えた。
「…航?」
「今はまだ、全部は話せない。でも、これだけは信じてくれ。俺はお前を傷つけたいわけじゃない。むしろ、その逆だ。お前を、莉奈を守りたい。ただ、それだけなんだ。そのためなら、俺は…」
俺は言葉を飲み込んだ。これ以上は言えない。言えば彼女をこの非日常に引きずり込むことになる。
莉奈は俺の言葉を黙って聞いていた。彼女の瞳はまだ涙に濡れている。だが、その奥にさっきまでの激しい怒りや諦めとは違う色の光が、微かに灯ったような気がした。彼女を包むオーラの渦がほんの少しだけその激しさを和らげた。中心のオレンジ色の光が少しだけ強くなったように見えた。
「…もういい」
彼女はぽつりとそう呟くと、俺の腕からそっと自分の腕を抜いた。
「今は何も聞かない。航がそう言うなら、信じるから。…信じたい、から」
彼女はそう言うと俺に背を向け、自分の教室へとゆっくりと歩いていった。その背中はまだ小さく震えている。だが、さっきまでの逃げるような足取りとは違っていた。そこには俺の言葉を信じようと必死に戦っている、彼女の意志が感じられた。
一人廊下に取り残された俺は、その場にへたり込みそうになるのを必死で堪えた。耳につけたままのイヤリングを、震える手で乱暴に引きちぎるように外す。途端に世界から色が消え、俺の視界はいつもの無機質な日常の色に戻った。同時に、激しい頭痛と精神的な疲労感がどっと全身にのしかかってくる。
「…はぁ、はぁ…」
最悪だ。俺は結局、一番卑怯な手を使ってしまった。だが、後悔はなかった。莉奈の心のあの温かい光をこの目で見ることができたから。まだ間に合うかもしれない。そう思えたから。
「面白い顔をしているわね」
不意に背後から、静のいつものように感情の読めない声がした。振り返ると、彼女が壁に寄りかかりながら俺のことを興味深そうに観察していた。
「何か新しい『発見』でもあったのかしら? あなた、さっきまでとは顔つきが違うわよ。まるでパンドラの箱を開けてしまったかのような、そんな顔」
彼女にはお見通しというわけか。俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「…さあな。それよりお前、いつからそこにいたんだよ」
「最初からずっとよ。あなたと莉奈さんの、その陳腐なメロドラマを特等席でね」
静はくすりと笑うと、俺の隣にゆっくりと歩み寄ってきた。
「でも、少しだけ見直したわ。今のあなたは、ただの嘘つきな臆病者じゃない。禁断の果実を自らの意志で口にした。その覚悟は褒めてあげる」
彼女の言葉は俺の心を見透かしているかのようだった。俺はもう彼女の前では何も隠すことはできないのかもしれない。
「これからどうするのかしら。その『力』を使って全てを知る? それとも見なかったことにして、また嘘を重ねる?」
静の問いかけが俺の心に重くのしかかる。俺はまだその答えを見つけられずにいた。
俺が手に入れてしまったこの禁断の力。それは俺たちの関係を、日常を、一体どこへ導いていくのだろうか。今はまだ、誰にもわからない。
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