第16話絡みつく視線と、新たなアイテム

莉奈からの『おやすみ』メッセージに返信できないまま、俺は浅い眠りと重い疲労感の中で朝を迎えた。大学へ向かう足取りは、まるで鉛を引きずっているかのように重い。教室のドアを開けると、案の定、そこにはいつもの三人がいた。莉奈は、俺と目が合うと、一瞬だけ寂しそうに微笑み、すぐに友達の輪の中へと戻っていく。蓮は、俺と静を交互に値踏みするように一瞥し、鼻で笑って自分の席に着く。そして静は、いつも通り、文庫本に視線を落としたまま、俺の存在に気づいているのかいないのか、全く表情を変えない。


この息苦しい空気。これが、俺の新しい日常。自業自得だとわかってはいても、胸の奥がじくじくと痛む。楽しかったはずの大学生活が、今はまるで、見えない敵に囲まれた戦場のようだ。


講義中も、俺は三人の視線を常に感じていた。右斜め前からは、莉奈の、心配と、ほんの少しの嫉妬が混じった、やきもきとした視線。左斜め後ろからは、蓮の、獲物の隙をうかがうような、鋭く冷徹な視線。そして、真横からは、静の、俺の反応を観察し、分析しているかのような、底の知れない探求者の視線。三者三様の視線が、まるで粘着質な蜘蛛の糸のように、俺の全身に絡みついてくる。息が詰まりそうだ。


「なあ、静。お前のせいだぞ、この空気」


昼休み、俺は、中庭のベンチで一人本を読んでいる静の隣に、わざと音を立てて座った。


「私のせい? 心外ね。私はただ、あなたの秘密が暴かれないように、最適な解決策を提示しただけよ。感謝こそされど、責められる謂れはないわ」


静は、本から目を離さずに、淡々と答える。その横顔は、まるで氷の彫刻のように、美しく、そして冷たい。


「感謝、ね。おかげで、莉奈には避けられるし、蓮にはストーカーみたいに監視されるし、最悪だよ」


「それは、あなたの立ち回りが下手だからでしょう? 莉奈さんには、もっと優しく、誠実に接するべきよ。たとえ、それが嘘の上塗りでしかないとしてもね。女の子は、優しい嘘を、真実よりも好む時があるものよ。蓮くんに対しては…そうね、もっと堂々としていればいいのよ。あなたは、国家機密級のプロジェクトに参加している、特別な存在なのだから。コソコソしているから、余計に怪しまれるの」


「言うのは簡単だけどな…」


俺は、ため息をついた。静の言うことは、正論だ。だが、俺は、そんなに器用な人間じゃない。嘘をつき続けることの罪悪感と、友人たちを騙していることへのストレスで、心はとっくに限界を超えていた。


「ストレスが溜まっているのなら、発散してきたらどう? あなたには、格好の遊び場があるじゃない」


静は、そこで初めて本から顔を上げ、俺の目をじっと見つめてきた。その瞳は、まるで全てを見透かしているかのようだ。


「…番人が、怖いんだ」


俺は、思わず本音を漏らしていた。あの、死を予感させる圧倒的なプレッシャー。一度味わってしまった恐怖は、トラウマのように、俺の心に深く刻み込まれている。


「そう。高次の存在に感知されたのね。おそらく、『クロノ・スタシス機能』…時間を止める懐中時計を使った代償でしょう。因果律に干渉するほどの力には、それ相応のリスクが伴う。世界の均衡を保つための、安全装置のようなものかしら」


静は、俺の恐怖を、まるで他人事のように、冷静に分析する。


「でも、その恐怖を乗り越えなければ、あなたは先に進めない。今のあなたは、レベルも中途半端で、持っているアイテムも、日常を少し便利にする程度のものばかり。蓮くんの追及が、さらに本格的になった時、今のあなたのままでは、きっと対応できないわ。もっと、圧倒的な『力』を手に入れる必要がある。そのためには、ダンジョンの深層へ行くしかないのよ」


静の言葉は、冷たく、そして残酷なほどに、真実だった。このまま、浅い階層でスライムをいじめているだけでは、何も変わらない。蓮の嘘を暴こうとする執念からも、莉奈の悲しい瞳からも、逃げることはできない。


「…わかってるよ」


俺は、重い腰を上げた。怖い。だが、行かなければならない。この息苦しい日常から抜け出すために。そして、俺が壊してしまった、大切なものを取り戻すために。


その日の放課後、俺は、意を決して、あのコインランドリーへと向かった。洗濯機のドアを開け、ひんやりとしたダンジョンの空気を吸い込む。ごくり、と喉が鳴った。


第一階層の洞窟エリアを抜け、第二階層の森林エリアへ。ここまでは、何度も来た道だ。ゴブリンやオークを、手慣れた動きで倒していく。だが、第三階層へと続く、薄暗い階段を前にして、俺の足は、再び止まってしまった。この先に、あの「番人」の気配が満ちている。


『行かなければ、何も変わらない』


静の言葉が、頭の中で反響する。俺は、奥歯をギリッと噛み締め、震える足に活を入れて、階段を駆け下りた。


第三階層は、じめじめとした空気と、水の滴る音が響く、広大な水路エリアだった。壁や天井からは、青白く光る苔が垂れ下がり、幻想的な光景を作り出している。だが、その美しさとは裏腹に、そこかしこから、これまでとは比較にならないほどの、邪悪な気配が漂っていた。


俺は、慎重に、壁際を伝って進んでいく。すると、前方から、チャプチャプという、水音と共に、何かが近づいてくるのが見えた。半魚人だ。緑色のぬめぬめとした肌に、魚のような顔。手には、錆びた銛を持っている。レベルは、ゴブリンの比ではないだろう。


俺は、鉄パイプを構え、真正面から斬りかかった。だが、半魚人は、素早い動きでそれをかわし、カウンターで銛を突き出してきた。俺は、咄嗟に身を翻して避けたが、頬をかすめ、鋭い痛みが走る。


「くっ…!」


強い。今までのマモノとは、動きのキレも、パワーも、全く違う。これが、深層のレベルか。俺は、何度も攻撃を仕掛けるが、その尽くが、分厚い鱗に阻まれ、有効なダメージを与えられない。逆に、じりじりと追い詰められ、腕や足に、浅い傷が増えていく。


まずい、このままじゃ、ジリ貧だ。何か、策は…。


その時、俺の脳裏に、静との「実験」の光景が蘇った。『思考が高速化するガム』。あれを使えば、活路が見出せるかもしれない。俺は、懐からガムを取り出し、口に放り込んだ。


カチリ。


世界が、再びスローモーションになる。半魚人の、単調な攻撃パターン。弱点は、鱗に覆われていない、喉元と、関節部分。そして、俺のステータス、スキル、アイテム…。全ての情報が、脳内で高速で処理され、最適解を導き出す。


俺は、半魚人が銛を突き出してきた、そのコンマ数秒の隙を突き、懐に潜り込んだ。そして、がら空きになった喉元に、ありったけの力を込めて、鉄パイプを突き立てた。


グギャアアア!


半魚人は、断末魔の叫びを上げ、光の粒子となって消滅した。その場には、一体の魔石と、そして、キラリと光る、小さな銀色の指輪が残されていた。


「はぁ、はぁ…。やった…のか…?」


ガムの効果が切れ、激しい頭痛と疲労感に襲われる。だが、それ以上に、強敵を打ち破ったという達成感が、俺の心を奮い立たせた。俺は、震える手で、その指輪を拾い上げた。


【アイテム『幸運を呼ぶ指輪』手に入れた】

ランク:レア

効果:装備中、幸運(LUK)のステータスが、わずかに上昇する。ドロップアイテムの質と確率が、少しだけ向上するかもしれない。


「幸運…か」


今の俺に、一番必要なものかもしれない。俺は、その指輪を、自分の左手の人差し指にはめた。すると、指輪が、俺の指のサイズに合わせて、きゅっと締まる。ステータス画面を開くと、確かに、LUKの項目が、ほんの少しだけ上昇していた。


恐怖を乗り越えた先で手に入れた、新しい力。それは、ほんの小さな一歩かもしれない。だが、この一歩が、停滞していた俺の日常を、再び動かし始める、大きなきっかけになるような、そんな予感がしていた。


俺は、まだ奥へと続く、暗い水路の先を見つめた。番人の気配は、まだ消えていない。だが、さっきまでの、どうしようもない恐怖は、不思議と薄れていた。


もっと強く、ならなくちゃな。


俺は、誰に言うでもなく、そう呟くと、新たなマモノを求めて、水路の奥へと、再び足を踏み出した。

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