第14話共犯者たちの密約
あの衝撃的な公園での一件から数日。俺たちの日常は、まるで割れたガラスを巧妙な接着剤で貼り合わせたかのように、表面上は元通りになっていた。莉奈は、以前のように屈託なく俺に話しかけ、笑いかけてくれるようになった。その笑顔に嘘はなく、彼女が心から安堵しているのが伝わってきて、俺の胸を締め付けていた罪悪感は、少しだけ軽くなった。だが、ガラスのひび割れが消えないように、俺たちの間に起きた出来事の痕跡は、決して消えることはなかった。
蓮は、あの日以来、俺と必要最低限の会話しか交わさなくなった。その目は、以前にも増して冷徹な光を宿しており、俺と、そして特に静の一挙手一投足を、獲物を狙う肉食獣のように、執拗に観察しているのがわかった。彼は、静がでっち上げた「ARゲームのテスター」という話を、一ミリたりとも信じていない。その全身から発せられる疑念のオーラは、教室の空気を常にピリつかせていた。
そして、月島静。俺の唯一の共犯者。彼女は、何も変わらない。相変わらず物静かに本を読み、時折、俺にだけわかるような、意味深な笑みを向けてくる。その微笑みは、俺にとって、心強い味方のサインであると同時に、全てを掌握する支配者の宣告のようにも感じられ、俺の心を落ち着かなくさせた。
そんな奇妙なバランスの上で成り立っている偽りの日常の中、ある日の放課後、俺のスマホが短く震えた。メッセージの送り主は、月島静だった。
『作戦会議をしましょう。放課後、旧館の第二音楽室で待っています』
簡潔な、しかし有無を言わせぬその文面に、俺は一つため息をつくと、莉奈からの「一緒に帰ろう」という誘いを、「悪い、今日もバイトだ」という、もはや使い古された嘘で断った。莉奈は少しだけ不満そうな顔をしたが、「そっか。あんまり無理しないでね」と、健気にも俺の身を案じてくれる。その優しさが、今はひどく痛かった。俺が彼女の信頼を裏切っているという事実が、鋭い棘のように心に刺さる。
旧館の第二音楽室は、今はもうほとんど使われておらず、埃と、微かに残る楽器のオイルの匂いが混じり合った、独特の空気が流れていた。西日が差し込む窓際には、一台のグランドピアノが、白い布をかぶって静かに佇んでいる。そのピアノの椅子に、静は腰掛けていた。まるで、この世界の全てを舞台にした、壮大な劇の開幕を待つ演出家のように、彼女は俺の登場を待っていた。
「来たのね、航くん」
「…何の用だよ、改めて。作戦会議なんて、大げさな」
俺がぶっきらぼうに言うと、静はくすりと楽しそうに笑った。その反応すら、彼女の計算の内であるかのようだ。
「大げさなものよ。だって、私たちの日常という名の舞台は、今、一人の優秀すぎる観客のせいで、崩壊の危機に瀕しているのだから。もちろん、橘くん対策よ。彼は、私たちの嘘を暴くために、必ず次の一手を打ってくる。その前に、私たちの『設定』を、もっと強固なものにしておく必要があるわ」
静はそう言うと、持っていたノートを開いて見せた。そこには、びっしりと、まるで論文のように、俺がこれまで手に入れたアイテムの性能と、それを「ARゲームの機能」として説明するための、詳細な考察が書き込まれていた。その几帳面な文字と、論理的に整理された内容に、俺は彼女の底知れない知性を改めて思い知らされる。
「まず、『調律の石』。これは『デバッグ・ツール:タイプ・キャリブレーション』と位置づけるのが妥当ね。物質の固有振動数、つまり物理パラメータを最適化する、開発者用の特殊機能。莉奈さんの時計を直したのは、このツールを使って、破損した内部パーツの設計データを読み取り、予備のナノマシンに再送信。それによって、部品を原子レベルで再構築させた、というストーリーでいきましょう。これなら、時計屋さんが『部品がない』と言ったこととも矛盾しない」
「次に、『絶対に汚れない純白のTシャツ』。これは『テクスチャ・プロテクション機能:レベルMAX』。オブジェクトに付与されたテクスチャ情報を、外部からの物理的干渉――つまり、汚れや液体から完全に保護するためのもの。コーヒーを弾いたのは、この機能が過剰に働いた結果、斥力フィールドが可視化されるレベルで展開された、ということにするわ。蓮くんなら、『斥力フィールド』という単語に食いついてくるはずよ」
静は、俺の秘密のアイテムの数々を、まるで自分の研究対象であるかのように、生き生きと、そして的確に分析し、その偽りの設定を補強していく。その頭の回転の速さと、物事の本質を見抜く洞察力に、俺はもはや驚きを通り越して、一種の畏怖さえ感じていた。彼女は、俺がただ「面白い」と感じて使っていただけのアイテムに、科学という名の衣を着せ、現実世界に通用する「嘘」へと昇華させていく。
「そして、問題はこれね」
静が指さしたのは、『3秒だけ時間を止められる懐中時計』の項目だった。そのページには、他の項目よりも多くの書き込みと、いくつかの数式まで書き殴られている。
「『クロノ・スタシス機能』。これは、さすがに蓮くんを騙しきるのは難しいわね。時間停止なんて、現代物理学の根幹を揺るがす現象だもの。でも、不可能じゃない。あの時、あなたは本当に時間を止めたわけじゃない。ゲームのサーバーに意図的に高負荷をかけることで、コンマ数秒だけ、サーバーと同期している私たちの認識にラグを発生させた。一種の強制的な遅延状態ね。そのラグの間に、あなたは『身体能力ブースト』機能を使って、常人には知覚できない速度で行動した。だから、莉奈さんには、あなたが席にいたまま、事が解決したように見えた。…この説明で、なんとか押し通すしかないわね。蓮くんが納得しなくても、彼がそれを反証するのは、ほぼ不可能だから」
彼女の口から語られる「嘘」は、あまりにも精巧で、論理的で、そしてSF的だった。俺は、ただ呆然と、その完璧なストーリーに聞き入るしかなかった。まるで、出来の悪い役者が、天才的な脚本家から、次のセリフを与えられているような気分だった。
「どう? これで、私たちの『ARゲーム』は、より完璧なものになると思わない?」
静は、悪戯っぽく微笑んで、俺の顔を覗き込んできた。その深い黒い瞳の奥に、純粋な知的好奇心と、ほんの少しの、スリルを楽しむかのような危うい光が宿っている。俺は、彼女のその底知れない才能と、危うい魅力に、知らず知らずのうちに引き込まれている自分に気づいていた。
「…お前、一体、何者なんだよ。なんで、そこまでして俺に協力するんだ?」
「さあ? 私はただの、知的好奇心が旺盛な、ごく普通の女子大生よ。そして、あなたのその『力』は、教科書のどのページにも載っていない、最高に刺激的な研究テーマだから。協力しているんじゃない、参加しているのよ。あなたの物語にね」
静はそう言うと、ピアノの鍵盤を、ぽろん、と一つ鳴らした。その澄んだ音は、この秘密の会合の終わりを告げる合図のようだった。
「口で説明するだけじゃ、信憑性に欠けるわね。今度、この『機能』を使って、何か面白い実験でもしてみましょうか。二人だけの、秘密の実験をね。蓮くんを完全に黙らせるくらいの、決定的な証拠を作り上げるために」
その提案は、俺にとって、抗いがたい魅力を持っていた。この偽りの日常を維持するため。そして、何よりも、この月島静という、謎めいた共犯者のことを、もっと知りたいと思ってしまったから。彼女となら、この秘密を、もっと面白いものに変えられるかもしれない。そんな、危険な期待が芽生え始めていた。
俺たちの奇妙な共犯関係は、こうして、誰にも知られることなく、より深く、そして確かなものへと変わっていった。だが、俺はまだ気づいていなかった。この偽りの日常を繋ぎ止めるための行為そのものが、蓮の疑念をさらに燃え上がらせ、そして、莉奈の心に、新たな不安の影を落とすことになるということに。
帰り道、俺は、今日の静とのやり取りを反芻していた。彼女がいれば、この秘密を守り通せるかもしれない。そんな淡い期待を抱き始めていた。その時、ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れたバス停の影で、莉奈が一人、こちらをじっと見つめているのが見えた。彼女は、俺と、そして俺の少し後ろを歩く静の姿を、交互に見比べていた。その表情は、安堵でも、笑顔でもない。どこか、取り残された子供のような、寂しさと、そして、俺の知らないところで何かが進んでいることへの、拭いきれない不安の色を浮かべていた。
まずい、見られた。俺と静が、二人きりでいたところを。
莉奈は、俺と目が合うと、傷ついたような顔でふいっと顔をそむけ、やってきたバスに逃げ込むように乗り込んでいった。その背中が、やけに小さく、そして遠く見えた。
偽りの日常は、修復されたと同時に、新たな歪みを生み出し始めていた。その歪みの中心で、俺は、二人のヒロインの間で、ただ立ち尽くすことしかできないでいた。
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