第10話歪む日常と、時の支配者

『思考が高速化するガム』。その銀色のパッケージは、俺の机の引き出しの奥で、まるでパンドラの箱のように静かな存在感を放っていた。一度その禁断の果実の味を知ってしまった俺は、抗いがたい誘惑と、背筋が凍るような恐怖との間で、絶えず揺れ動き続けていた。


カフェでの一件以来、俺と友人たちとの間には、目には見えないが、分厚く、そしてひどく冷たい壁ができてしまった。教室で顔を合わせても、交わす言葉はぎこちなく、当たり障りのないものばかり。かつて、くだらない話で腹を抱えて笑い合った、あの温かい空気は、もうどこにも存在しなかった。


特に、莉奈との関係は、もはや修復不可能なほどにこじれてしまっているように感じられた。彼女は、俺の顔を見るたびに、何か言いたげに唇を開きかけては、結局、悲しそうに目を伏せてしまう。その瞳には、以前のような親密さや信頼の色はなく、心配を通り越して、得体の知れないものを見るかのような、微かな怯えの色さえ浮かんでいた。その視線が、俺の胸をナイフのように抉る。


蓮は、あからさまに俺を避けるようになった。だが、その視線は常に俺の背中に突き刺さっており、俺の一挙手一投足を監視し、分析し、俺が隠している秘密の尻尾を掴もうと、執拗に機会をうかがっているのがわかった。彼のロジックの世界から逸脱した俺という存在は、彼にとって、もはや解明すべき研究対象でしかないのかもしれない。


そして、静。彼女だけは、以前と何も変わらないように見えた。だが、その静けさこそが、今の俺には何よりも不気味に感じられた。彼女はきっと、全てを知っている。俺が抱える秘密の正体も、そして、その秘密が俺たちの関係を静かに蝕んでいく、この歪んだ日常の行く末さえも。彼女はただ、この物語がどこへ向かうのかを、静かな観察者として見届けているだけなのだ。


そんな息の詰まるような日常で、俺は、あのガムの力に頼らざるを得なくなっていた。


「相田くん、この前のレポート、素晴らしかったよ。特に、古代ギリシャ哲学における『アペイロン』の概念と、現代の超ひも理論との関連性についての考察は、修士論文レベルの独創性だ。一体、どんな文献を参考にしたのかね?」


ゼミの教授に呼び止められ、俺は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。もちろん、あのレポートは、ガムを噛んだ5分間で、脳内に溢れ出た情報を書きなぐっただけの代物だ。参考文献など、一つもない。


「は、はは…色々な本を、つまみ食いのように読んでいたら、偶然、アイデアが閃いただけでして…」


俺は、引きつった笑みを浮かべながら、頭の中で必死に言い訳を探す。だが、教授の知的な探求心に満ちた質問は、矢継ぎ早に飛んでくる。まずい、このままではボロが出る。俺は、ポケットに忍ばせていたガムのパッケージに、無意識に指を伸ばしていた。


トイレの個室に駆け込み、一片のガムを口に放り込む。カチリ、と世界が変わるスイッチが入る。脳が超高速で回転を始め、教授の質問に対する完璧な回答、それも、俺の知識レベルに合わせた、少し背伸びした程度の、絶妙なラインの回答が、瞬時に何パターンも生成される。


俺は個室から出ると、教授の元へ戻り、生成された模範解答を、まるで元から自分の知識であったかのように、淀みなく語り始めた。教授は感心したように何度も頷き、俺の肩を叩いて満足げに去っていった。


後に残されたのは、ガムの副作用による猛烈な頭痛と、自己嫌悪の渦だけだった。俺は、友人だけでなく、自分自身さえも、この偽りの力で騙し始めている。ガムを使うたびに、俺は「相田航」という人間から、どんどんかけ離れていく。思考の速度が違う。見える世界が違う。感じる時間の流れが違う。友人たちとの会話も、彼らの言葉の意図を瞬時に理解し、最適解を返してしまうため、どこか血の通わない、無機質なものになってしまっていた。


そんなある日の放課後だった。一人でとぼとぼと帰路につこうとする俺の背中に、懐かしい、しかし今は少しだけ聞くのが怖い声がかけられた。


「航…待って」


莉奈だった。彼女は、何かを決意したような、強い意志を宿した目で、俺の前に立ちはだかった。


「今度の週末、空いてるよね? 前に約束した、駅前のパンケーキ屋さん、覚えてる?」


その言葉に、俺は一瞬、言葉を失った。この、凍りついたような関係の中で、彼女がまだ、あの約束を覚えていてくれたことに、驚きと、そして胸を締め付けるような痛みが走った。


「…ああ、覚えてるけど。でも、今、俺たちって、そんな雰囲気じゃ…」

「だから行くの!」


莉奈は、俺の言葉を遮るように、声を張り上げた。その声は、少し震えていた。


「最近の航、見てられないよ! いつも何かに怯えてて、一人で全部抱え込んで…頭が良くなったみたいだけど、なんだか、すごく遠くに行っちゃったみたいで…怖いよ!」


彼女の瞳から、堪えきれなかった涙が、一筋、頬を伝った。


「私、もう、わけわかんない! でも、一つだけわかることがある。このままじゃ、ダメだってこと。だから、お願い。週末、二人で会って、ちゃんと話がしたい。昔みたいに、何も考えずに、バカなこと言って、笑い合いたい。それだけじゃ、ダメかな…?」


莉奈の切実な願いが、俺の心の、固く凍りついていた部分を、少しだけ溶かしていく。そうだ、俺は何をしていたんだ。ダンジョンだの、アイテムだの、そんなものにうつつを抜かして、一番大切にしなければいけないものを、見失っていたんじゃないのか。


「…わかった。行こう、パンケーキ。お前の好きなだけ、食わせてやる」


俺がそう言うと、莉奈の顔が、ぱっと花が咲いたように輝いた。その涙に濡れた笑顔は、以前、彼女の時計を直した時と同じくらい、まぶしくて、俺の胸に深く突き刺さった。


その約束を胸に、俺は週末までの数日間を、まるで罪人が判決を待つような気持ちで過ごした。そして、心のどこかで決めていた。莉奈との約束を果たす前に、もう一度だけ、ダンジョンに潜ろう、と。これは、現実逃避じゃない。莉奈との時間を、心から楽しむために、今の俺の中にある澱のような不安や焦りを、一度リセットするための、必要な儀式なのだ。俺は、そう自分に言い聞かせた。


いつものコインランドリーを抜け、ひんやりとしたダンジョンの空気に身を浸す。俺は、これまで探索したことのない、さらに奥のエリアへと足を進めた。第二階層の森林エリアを抜け、湿った空気と、水の流れる音が聞こえてくる場所に出た。ここが、第三階層『水路エリア』の入り口らしい。


壁や地面は、常に濡れており、足元には小さな水路が網の目のように走っている。奥からは、ゴウゴウという、大きな滝のような音が響いてきた。天井からは、鍾乳石のように垂れ下がる巨大なパイプが無数に伸びており、時折、そこから水が噴き出したり、蒸気が漏れ出したりしていた。まさに、巨大なコインランドリーの内部に迷い込んだかのような、奇妙で、しかしどこか見覚えのある光景だった。


俺は、慎重に水路エリアを進んでいく。すると、水の中から、ぬらりとした影が現れた。半魚人――マーマンだ。緑色の鱗に覆われた身体、手には三叉の槍を持ち、鋭い牙を剥き出しにして、こちらを威嚇している。


「シャアアアッ!」


マーマンは、甲高い奇声を発すると、水中を驚異的なスピードで滑るように移動し、槍を突き出してきた。その動きは、陸上のゴブリンとは比べ物にならないほど素早く、そして立体的だ。


「うおっ!」


俺は咄嗟に鉄パイプで槍を受け流すが、水中の敵は体勢を立て直すのが早い。すぐに次の攻撃が繰り出される。俺は、足場の悪い水路で、苦戦を強いられた。


だが、今の俺はレベルも上がり、戦闘経験も積んでいる。俺は、マーマンの攻撃パターンを冷静に見極め、天井のパイプから間欠泉のように熱水が噴き出すタイミングを計った。そして、マーマンが俺に突進してきたその瞬間、俺は身をかわし、敵を熱水の射線上に誘導する。


「ギャアアアッ!」


熱水をまともに浴びたマーマンは、苦悶の叫び声を上げて水中に倒れ込み、やがて光の粒子となって消えていった。


【航は経験値30を獲得した】


やはり、階層が深くなるほど、得られる経験値も格段に上がる。俺は、息を整えながら、周囲を警戒した。


マーマンが消えた場所の近く、水路の底で、何かが鈍い金属光を放っているのが見えた。俺はそれを拾い上げる。それは、銀色の、少し古びた懐中時計だった。手に取った瞬間、いつものウィンドウが目の前に現れる。


【アイテム『3秒だけ時間を止められる懐中時計』を手に入れた】


「…は?」


俺は、思わず声を漏らした。時間を、止める? そんな、まるで神の領域に踏み込むような力が、こんな、ただのガムやTシャツと同じように、手に入ってしまっていいのか?


俺は、ごくりと唾を飲み込み、懐中時計の竜頭に、恐る恐る指をかけた。そして、意を決して、それを押し込んでみた。


その瞬間、世界から、音が消えた。


ゴウゴウと鳴り響いていた滝の音も、水の流れる音も、俺自身の心臓の音さえも、全てがぴたりと止まった。目の前で、水路を流れていた水滴が、空中に静止している。天井から落ちてきた水滴も、まるでガラス細工のように、その場に留まっている。俺以外の、全ての時間が、完全に停止していた。


俺は、ゆっくりと腕を動かしてみる。動く。歩ける。俺だけが、この静止した世界で、唯一、動くことを許されている。これが、時の支配者の視点なのか。


――3秒後。


世界に、再び音が戻ってきた。止まっていた水滴が、重力に従って落下し、滝の音が、再び轟音となって響き渡る。まるで、何事もなかったかのように、世界は再び動き始めた。


「すげぇ…」


俺は、ただ、呆然と呟いた。これは、これまで手に入れてきたどんなアイテムとも、次元が違う。調律の石も、汚れないTシャツも、思考が高速化するガムも、この力の前に霞んでしまうほどの、絶対的な力。


興奮が、全身を駆け巡る。これさえあれば、蓮の追及も、どんな危機的状況も、乗り越えられるかもしれない。


だが、その興奮と同時に、これまでとは比較にならないほどの、巨大な恐怖と責任が、俺の肩にのしかかってきた。この力は、絶対に、間違ったことに使ってはいけない。使い方を一つ間違えれば、俺だけでなく、莉奈や、友人たち、いや、この世界そのものを、取り返しのつかない事態に陥れてしまうかもしれない。


俺は、懐中時計を強く握りしめた。


その時だった。


ダンジョンの、さらに奥深く。俺がまだ足を踏み入れたことのない、暗闇の先から、今まで感じたことのない、強大で、禍々しく、そして明確な敵意に満ちた気配が、俺に向かって急速に迫ってくるのを、肌で感じた。


それは、スライムやゴブリンのような、ただのマモノではない。このダンジョンの法則そのものを体現するような、圧倒的な存在感。まるで、この聖域を荒らす侵入者を排除するために目覚めた、「番人」のような、巨大なプレッシャー。


まずい。


本能的な恐怖が、俺の全身を支配した。俺は、踵を返し、一目散に入り口へと向かって駆け出した。背後から迫る、巨大な気配。俺は、ただ、無我夢中で走り続けた。このダンジョンは、俺が思っていたような、ただの遊び場ではないのかもしれない。その冷たい事実が、俺の心臓を、氷の手で鷲掴みにするのを感じていた。

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