第8話静かなる観察者と、世界の真理
学食でのコーヒー事件の翌日、俺はまるで指名手配犯にでもなったかのような、居心地の悪い一日を過ごしていた。講義中、俺は背中に突き刺さる三対の視線を、痛いほどに感じていた。右斜め後ろの莉奈からは、心配と不安がごちゃ混ぜになった、どこか湿っぽい視線。左斜め後ろの蓮からは、俺の一挙手一投足を分析し、何かボロを出さないかと待ち構えているかのような、冷徹で探るような視線。そして、その後ろの席の静からは、感情の読めない、しかし全てを見透かしているかのような、静謐な視線。そのトリプルコンボは、俺の精神をじわじわと、しかし確実に削り取っていった。
俺は彼らと目を合わせるのを巧みに避け、講義が終わると同時に教室を飛び出し、彼らがいつも利用する中央図書館ではなく、旧館にある、ほとんど人の寄り付かない第二図書室へと逃げ込んだ。
第二図書室は、その存在を知る学生の方が少ないであろう、大学の片隅に追いやられた場所だ。高い天井まで届く木製の書架には、誰も読まないような、背表紙の文字も掠れた古い専門書がぎっしりと並んでいる。カビと、古い紙の匂いが混じった独特の空気が、ここだけ時間の流れが止まっているかのような錯覚を覚えさせた。静寂が支配するこの場所は、今の俺にとって、ダンジョンに次ぐ第二の聖域(サンクチュアリ)だった。
俺は一番奥の、窓から差し込む光が筋となって床に落ちる、埃っぽい一角に腰を下ろし、適当に手に取った哲学書を開いた。もちろん、内容など全く頭に入ってこない。ただ、活字の海に意識を沈めることで、友人たちの視線から逃れたかったのだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。不意に、すぐ近くで、すっ、と誰かが椅子を引く音がした。俺は驚いて顔を上げた。こんな場所に、俺以外の人間がいるはずが…。
「ここ、いいかしら?」
そこにいたのは、月島静だった。彼女は、いつの間に俺の隣に来たのか、にこりともせず、しかし拒絶するでもない、いつもの不思議な表情で俺を見下ろしていた。手には、難解な数式が並んだ、分厚い物理学の専門書を抱えている。
「し、静…!? なんで、ここが…」
「航くんが、私たちから逃げたい時に、どこへ行くかなって考えたら、一番可能性が高いのはここかなって思っただけ。昔からそうだったでしょう? あなたは、考え事をする時、いつも静かで、誰にも邪魔されない場所に一人でこもる癖がある」
静は、まるで俺の行動パターンなど、全てお見通しだと言わんばかりに、淡々と告げた。俺は、自分の単純さを見透かされたようで、少しだけ気恥ずかしくなる。
「別に、逃げてるわけじゃ…」
「そう? 私には、何かにひどく怯えているように見えるけれど」
静は俺の言い訳をあっさりと切り捨てると、俺の向かいの席に静かに腰を下ろした。そして、彼女は本を開くでもなく、ただ、じっと俺の顔を見つめてくる。その、吸い込まれそうなほどに深い黒い瞳に見つめられていると、俺はまるで、心の奥底まで裸にされていくような、居心地の悪い感覚に陥った。
「…なんだよ。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
沈黙に耐えきれず、俺がそう言うと、静はふっと、本当に楽しそうに、小さく微笑んだ。
「別に、何もないわ。ただ、昨日のあなたのTシャツ、本当に不思議だったなって、それだけ」
「だから、あれは、すげぇ撥水加工の…」
「撥水加工、ね。蓮くんが、昨夜からずっと調べていたみたいよ。『超臨界ジオメトリ被膜』だとか、『分子レベル自己修復テキスタイル』だとか、色々。でも、学食で起きたあの現象を、現代の科学で説明できる技術は、まだ存在しない、という結論に至ったそうよ」
蓮のやつ、本気で調べやがったのか。その執念深さには、もはや恐怖すら覚える。だが、静の口から語られると、それはまるで、他人事のような、どこか遠い世界の物語のように聞こえた。
「相田くんって」
静は、不意に話題を変えた。彼女は、窓の外に目をやりながら、独り言のようにつぶやく。
「時々、世界の真理に、たった一人で触れているみたいな顔をするよね」
その言葉は、俺の心の、一番柔らかい部分を、鋭いナイフで抉るかのように、深く突き刺さった。
「え…?」
「今も、そう。何か、私たちには到底理解できないような、途方もない秘密を抱えて、その重さに一人で耐えているような、そんな目をしている。まるで、この世界の、本当の姿を見てしまった人のように」
静の言葉は、比喩でも、推測でもなかった。それは、ほとんど確信に満ちた、真実の指摘だった。彼女には、俺がダンジョンという、この世界の理から外れた法則で動く場所に足を踏み入れていることが、わかっているのではないか。そんな、ありえないはずの恐怖が、俺の背筋を凍らせた。
「…お前、何が言いたいんだよ」
俺は、かろうじて、それだけを絞り出した。声が、自分でも情けないほどに震えているのがわかった。
静は、俺の動揺を楽しんでいるかのように、くすくすと笑った。そして、立ち上がると、俺の耳元に顔を寄せ、囁くように言った。
「別に、詮索するつもりはないわ。あなたの秘密が、あなたを苦しめているのなら、それは少し、可哀想だなって思っただけ。でも、覚えておいて。嘘は、いつか必ず、あなた自身を蝕んでいくものよ」
そう言い残すと、静は何もなかったかのように、自分の席へと戻り、再び物理学の専門書の世界へと没入していった。後に残されたのは、彼女の言葉によって、心の中を完全にかき乱された俺だけだった。
俺は、もうそこにはいられなかった。静の隣で、平静を装って本を読み続けることなど、到底できそうになかった。俺は荷物をひっつかむと、逃げるように第二図書室を後にした。
廊下を歩いていると、向こうから莉奈と蓮が話しながら歩いてくるのが見えた。俺は咄嗟に、柱の影に身を隠す。二人の会話が、断片的に聞こえてきた。
「…だから、ありえないんだって。物理法則を完全に無視している」
「でも、現に航は…」
「ああ。だから、何かあるんだ。あいつの身に、俺たちの知らない、何かが」
蓮の、冷静で、しかし有無を言わせぬ口調。そして、それに反論できず、ただ心配そうに眉を寄せる莉奈。その光景は、俺が、信頼する友人たちから、完全に孤立してしまったという事実を、残酷なまでに突きつけていた。
俺は、彼らから逃げるように、大学を飛び出した。向かう先は、もう決まっている。俺の唯一の聖域。俺を、ありのままに受け入れてくれる場所。
いつものコインランドリーにたどり着いた時、俺の心は、疲労と、焦燥と、そしてほんの少しの安堵感で、ぐちゃぐちゃになっていた。俺は、もう何も考えたくなかった。友人たちのことも、彼らの疑念も、俺が抱える秘密の重さも。全てを忘れて、ただ、無心にマモノを狩り、レベルを上げたかった。
「故障中」の洗濯機のドアを開け、俺は、光の階段へと足を踏み入れた。ぐにゃり、と空間が歪む。そして、目の前に、いつものステータスウィンドウが現れる。
`【相田 航 LV:5】`
`HP: 150/150`
`MP: 50/50`
`状態: 正常`
この、単純で、嘘のない世界だけが、今の俺の救いだった。
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