第10話 菜々香、原点にかえる
カッコいい恋人への道が、想像以上に険しいことを痛感した私は、一度、原点に立ち返ることにした。美冬が、どんな世界でどんな顔をして生きているのか。私はそれを、本当に理解しているのだろうか。
思考の整理のため、美冬がいつも使っている美術準備室へと向かった。あいつの匂いが思考をクリアにする。そんな気がした。
誰もいないはずの部屋のドアを開けると、先客がいた。
「あ……と、樋爪、先輩……」
そこにいたのは、要注意監視対象リスト、ナンバー2。美冬に心酔する後輩の、橘紗絵だった。
気まずすぎる沈黙が部屋に満ちる。
「……どうも」
「ど、どうも……」
会話が続かない。美冬の忘れ物を探すふりをして、部屋の中をうろつく。橘はそんな私を、怯えたウサギのような目で、ちらちらと見ていた。
やがて、沈黙に耐えかねたのか、橘が口を開いた。
「あ、あの、樋爪先輩……。美冬先輩、もうすぐお戻りになりますよね……?」
「……ああ。明日の便だ」
「よかった……! 先輩がいないと、サークルの衣装制作、全然進まなくて……」
私は少し眉をひそめた。
「……あいつがいないと何もできないのか、お前たちは」
少し棘のある言い方に、橘はぶんぶんと激しく首を縦に振った。
「そうなんです! 美冬先輩のデザインのアドバイスは、もう魔法みたいなんです! 私たちが何日も悩んだところを、先輩は一瞬で光の道筋を示してくださるんです……!」
目をキラキラさせながら熱弁する橘。その口から語られるのは、私の知らない、後輩たちから絶大な信頼を寄せられる、頼れるリーダーとしての美冬の姿だった。
私は、あいつがただ好きで、楽しんで服を作っているのだとばかり思っていた。あいつは、あいつの世界で、ちゃんと誰かの太陽になっていたのだ。
私は美冬を、「恋人」という、あまりにも狭い枠の中に閉じ込めていたのかもしれない。その事実に、胸を強く突かれたような衝撃があった。
「……あの、樋爪先輩……?」
私が黙り込んでいると、橘が心配そうに声をかけてきた。そして、何かを決意したように、自分が制作している衣装を、私の前に差し出した。
「もし、よろしければ……ここのドレープが、どうしても、美冬先輩みたいに綺麗に作れなくて……」
知るか。裁縫など、家庭科の授業以来だ。そう断ろうとした、その時。
口から勝手に言葉が滑り出ていた。
「……ああ、そこか。そこの布は、馬鹿正直に裁断するんじゃない」
「へっ?」
「あいつは、布の重力による落ち感を、ミリ単位で計算している……。お前が思っているよりも、ほんの少しだけ斜めに刃を入れるんだ。そうすれば……」
そこまで言って、我に返った。なぜ、私がこんなことを知っている……?
いや、私は知っている。あいつが布と向き合う時の、真剣な横顔を。ミシンを踏む、リズミカルな音を。デザイン画に、何度も線を描き加えては消す、ためらいの跡さえも。私はこの世界で、誰よりもあいつの創作の現場を見てきたのだから。
私の言葉に、橘は数秒間ぽかんとしていたが、やがて瞳を見開いた。
「!!! なるほど……! そういうことだったんですね! さっすが、樋爪先輩! 美冬先輩のこと、よく見てらっしゃるんですね! これが……噂に聞く、愛の力……!」
感動に打ち震える橘。純粋すぎる尊敬の眼差しに、顔が熱くなるのを感じた。
「ち、違う! 断じて、違う! 愛とか恋とか、そういう非科学的でふわふわしたものでは断じてない!」
「えっ!?」
「これは……、日々の地道な観察と、行動パターンの分析に基づいた、極めて論理的な帰結だ……! 分かったか!」
私は何を言っているんだ、私は。照れと羞恥で、消えてなくなりそうだった。
橘と別れた後、一人、夕暮れの道を歩いていた。
あいつの世界を、もっと知らなければならない。あいつが大切にしている仲間たち。あいつが情熱を注ぐ創作の世界。
独占するだけが愛じゃない。美冬が愛している世界ごと受け入れる。それこそが、私がなるべき、「カッコいい恋人」の姿なのかもしれない。
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