樋爪菜々香は、キスの数だけ嫉妬する。
火之元 ノヒト
プロローグ
私の世界は、二つの「私」でできている。
一つは、美術学部の
「……で、ここのテクスチャなんだけど、もう少しマットな質感にした方がいいかなって」
昼下がりのカフェテラス。同じゼミの田中くんが、課題の資料を指差しながら熱心に話している。彼の話は面白くて、つい身を乗り出して聞き入ってしまう。でも、私の意識の半分は、テーブル席から少し離れた、木陰に立つ恋人の姿を捉えていた。
ショートカットが風に揺れ、すらりとした手足がよく映えるパンツスタイル。遠目にもわかる、クールな美貌。私の、菜々香。彼女は別にこちらを睨んでいるわけでもなく、スマホに視線を落としている。でも、わかるのだ。あれは、獲物をロックオンした肉食獣の待ちの姿勢。田中くんとの会話が弾めば弾むほど、彼女の周りの空気はどんどん冷たくなっていく。
「――だから、鬼頭さんの意見も聞きたいなって。どう思う?」
「え、あ、うん。すごくいいと思うよ! その方向で……」
私の返事が終わるか終わらないかのうちに、すっと影が差した。菜々香だ。いつの間に移動してきたのか、彼女は無言で私の隣に立ち、田中くんに一瞥をくれる。その目に宿る光は、絶対零度。田中くんが「ひっ」と小さな悲鳴を上げたのを、私は聞き逃さなかった。
「菜々香」
私が名前を呼ぶと、彼女は氷の表情をふっと緩め、私だけに甘い眼差しを向ける。そして、私の返事を待たずに、ごく自然な動作で腰に腕を回し、グイッと引き寄せた。
チュ。
唇に、柔らかくて少し強引な感触。それは一瞬の触れ合いなんかじゃない。田中くんという「他者」に見せつけるための、所有権を主張する刻印のようなキス。彼女の焦りと独占欲が、唇を通して全部伝わってくる。
「……じゃ、俺、そろそろ行くわ!」
田中くんは、顔を真っ赤にしながら、嵐のように去っていった。残されたのは、私と、満足げに私の唇を親指で拭う菜々香。
「今の男、誰」
「クラスメイトの田中くん。課題の話をしてただけだよ」
「ふーん……。でも、距離、近すぎ」
不機嫌さを隠さないまま、菜々香はもう一度、今度は啄むように優しいキスを落とす。嫉妬の後の、これはお直しのキス。私の匂いを確かめて、他の誰かの気配を消して、安心するための儀式。
「私だけの美冬、だよね?」
耳元で囁かれる、いつもの言葉。その声には、彼女の弱さと、私を失うことへの恐怖が滲んでいる。面倒だなと思う瞬間が、全くないと言ったら嘘になる。息苦しいと感じることだって、ある。
でも、このどうしようもない独占欲と、まっすぐすぎる愛情の全てが、私に向けられている。私が「特別」だと、世界で一番価値のある存在だと、全身で証明してくれる。
だから私は、困ったように笑って、彼女の首に腕を回すのだ。
「当たり前でしょ? 私は、菜々香のものだよ」
そう答えると、菜々香は安心したように目を細めて、もっと深いキスをくれる。
キスの数だけ嫉妬して、キスの数だけ愛を確かめる。これが、私たちだけの日常。笑いと、たぶん少しの涙と、たくさんのキスで出来上がった、私たちのラブストーリーの始まり。
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