第3話

「アキ、仕事のメールがきたヨ」

 ちょうど風呂をあがり、リビングに入ったところでマリアが大きな声で叫んだ。


「ああ、どこからや?」


「ええと……、どこかな? 見たことない漢字だもん。わからないよォ」


 俺は頭をタオルで拭きながらつい舌打ちしそうになるのを堪えて、机の上に置かれたパソコンの画面を肩越しに覗いた。


「なんや、名古屋やないか」

 今度ははっきりと音に出して舌打ちしたので、すぐにマリアが釘を刺してきた。


「ナゴヤ? なぁんだ、また違うトコだね。それでもちゃんと仕事はしてね!」

「わかっとるわいや」


 すぐに背中を向けて、冷蔵庫から取り出したコーラをそのまま、ごくごくと一気に流し込んだ。


「アキ! ちゃんとグラスに入れて!」


「ちっ、やかましいやっちゃな。だんだん大阪のおばはんと変わらんようになってきやがって」

 マリアには解らないように早口でそうぼやいた後、タオルを腰に巻き、煙草に火を点けた。


パソコンに向かって、逞しく漢字と格闘している後ろ姿を見ると、日本にいた頃の怯えた子猫のような雰囲気は、もうなくなっていた。


 俺は最初に日本でマリアを見た時、これまでのジャパユキたちと、どこか違う印象を受けたのを思い出した。


彼女たちが名目上のタレントとして来日する際は、ほとんどが何人か連れ立って来日する。

 多いときは十人ほどまとまってくるケースさえある。グループの中では、来日回数の多いものが、仕切り役となって日本でのマナーや文化の違いを口うるさく指導していくのだが、時折こうしたベテランと呼ばれるタレントが含まれていない場合もある。


どのような組み合わせにするか、つまり経験者何人に対して未経験者を何人の割合とするのかは、雇い入れる日本の店側が決める。


 通常は、来日回数が多いものほど給料は高くなるので、予算の少ない店は自然と〈ファーストタイマー〉と呼ばれる未経験者の比率が多くなった。マリアの場合もそうだった。


 初めて来日する自称タレントたちを空港に出迎えるのも、その当時は俺の役目で、それが結構重要な仕事でもあった。というのも稀ではあるが、空港を出た途端に逃げ出す娘もいたからだ。


 これから始まる過酷な労働とピンハネを鑑みて、最初から計画を立てての事だと思うが、決まってそのような行動に出るのは、日本慣れしたベテランタレントと相場が決まっていた。


 マリアの一団は計八名が全員ファーストタイマーで、右も左もわからぬ日本に到着して、初日から逃げられる心配など皆無であった。


 その分、みんながおどおどと無理やり連れてこられた小動物のように、警戒心を体全体で表現していた。それをやんわりと解きほぐしてやるのも、俺の仕事の範疇であった。


 関西空港から俺の管理していた店までは、わずか十五分ほどの距離しかなく、店のシステムや仕事内容などをカタコトの英語を交えて説明してやる十分な時間もなかった。


 店では新しい女たちの到着を、今か今かと待ち構えている状態であったからだ。

店で使える彼女たちの期限は、最長で六か月しかない。


 うまく引き継ぎを行わなければ、途端に店にホステス不在の状態が続く事になってしまう。

実際にマリアの最初の赴任先も綱渡り状態であった。


 十人いたホステスのうち八人までもが、期限切れでつい二週間ほど前にすでに帰国していた。


 それからマリアたちファーストタイマーの一団が到着したこの日まで、わずか二人のタレントと呼ばれる女たちと、既に日本人と結婚をしたアルバイトと呼ばれるホステス一人でなんとか回している状態であった。


 常連客たちはすでに新しいタレントたちが、この日に到着するのを承知していた。

彼女たちは店に着くなり服装や髪の毛もそのままで、すぐさまお披露目となった。


まさに飢えた猛獣の群れに、なにも解らないまま放り込まれた訳である。


だが、そんな光景も、店の隅から見る俺にとっては、幾度となく見慣れた光景であった。


 日本語が全く理解できずに困惑した表情のまま酒を注ぐ者、早くも仕事を理解して愛想笑いを振りまく者とさまざまなのもいつもと同じだった。


 時折、先住のベテラン二人からタガログ語での指導が入り、一時間もすれば場は落ち着いてくる。


 生来の陽気な性格からなのか、フィリピン女性の適応能力はかなり早い。


 店の営業が終わるころになると、マイクを片手に歌って踊っている、なんてことも決して珍しい光景ではなかった。この一団もほとんどがそんな調子であった。


ただ、マリア一人を除いて――。


彼女は、どのテーブルに紹介されてもほとんどその表情を変えず、俯き加減でじっとしているだけであった。


 来日した八人の中にあって唯一の〈ミスティーサ〉と呼ばれるスペイン系の色白で、ひと際に目立ってはいたが、なにぶん反応が無いものだから客には面白味がない。


 マリアはすぐにテーブルチェンジとなっていった。


 フィリピンには、侵略と統治の歴史から、さまざまな人種の血が入り混じっている。

 一般的に一番認知されているのが、ネイティブの血が濃く小麦色の肌をした、いかにも東南アジアといった感じの者たちだが、華僑の血が色濃い者などはしゃべらなければ、中国人か、あるいは日本人と間違うほどであったし、スペイン系の血が濃い者は、総じて色が白く、目鼻立ちがはっきりとしていた。


 日本人の客にはマリアの属するスペイン系の受けが一番良かったようで、これまでの〈ミスティーサ〉たちの売り上げはダントツであった。


         


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