第4話 一難去って
一九八九年の八月、土曜の夜だった。
小杉が取材先から直帰し、寝支度をしていると、電話が鳴った。事務所の近くにある軽印刷屋からだった。
「小杉さん! あんたの事務所、燃えてるよ」
声は緊迫していた。
まるで別世界の出来事に思えた。しかし、話を聴くうちに、じわじわと現実感覚が戻って来た。
埼玉県T市の自宅からタクシーで駆けつけた。焼け跡が照明で照らされ、煙とも湯気ともつかないものが立ちのぼっていた。
ビルは、ほぼ全焼だった。
「燃えてるところ、見なくて良かったよ」
軽印刷屋のなぐさめが、心に
翌日の朝刊社会面にショッキングな見出しが躍っていた。
「夜の池袋で火事」
記事の番地から「もしかして」と電話をくれた知り合いもいたらしい。
「日曜に話し中であるはずがない。火事はやっぱり小杉さんのところだ」
と確信したことを、後に聞かされた。
午後、スタッフの一人と、旦那さんが来てくれた。
とにかく一度、現場を見ることにした。女性スタッフを残し、二人で焼け跡に入って行った。
壁伝いに階段を上り、事務所に入った。床を踏み抜きそうになりながら、確認していった。
ワープロは原型をとどめていなかった。本棚の資料類は灰になっていた。
(燃えているところなど、とても見られたものでは、なかっただろうな)
いたたまれなくなって、小杉は早々に退散した。
近くの公園で途方に暮れていた。
「データは?」
小杉が問うと、女性スタッフは、文字データは金曜に印刷会社に入稿した、と答えた。
小杉は胸を撫でおろした。
「でも、写真類はまだだったんです」
万事休す、だった。改めて写真原稿を集めるとなると、発行予定日にはとうてい間に合わない。
諦めかけた小杉に、ひっかかるものがあった。
「どこに置いてたの?」
「私の机の上に、本と一緒に立てていました」
彼女の机の上には確かに、焼け焦げた本が並んでいた。
(ほう、中までは火が通ってない!)
一瞬ながら、底知れぬ紙の強靭さに驚いた小杉だった。
かすかな可能性に賭けた。コンビニで懐中電灯を買い、夕闇せまる焼け跡に戻った。写真は多少焦げていたが、使用には耐えた。
出火の原因は不明だった。
「そういえば、見知らぬ男が入り口にいました」
と大家さんが何かを思い出したようだった。しかし、消防は
「あんたがそういうことを言うと、話がややこしくなるから」
と無視した。大家さんは仕方なく引き下がった。
小杉は一度だけ消防に呼ばれた。当日いちばん遅くまで残っていたため、何度も話を訊かれたスタッフもいた。
焼け出された直後の取り込み中でもあり、小杉は少なからず不愉快な気分になった。
弁護士事務所が入って、保障の話し合いがもたれた。
仲介に当たった男がいた。テナントたちが全幅の信頼を寄せて「先生」「先生」と呼ぶと
「いや、私は…」
と言葉を濁した。いろいろな人間が関わっているようだった。
業界紙編集長の好意で、会社の空きスペースを借りて半月ほど業務を続けた。その後、サンシャインシティ(注四)横のマンションに、移ることとなった。
新事務所で安堵していると、顧問税理士から電話があった。
「税務署が査察に入ります」
という。逆らえなかった。
税務署員は重箱の隅を突っつくようなことを質問してきた。小杉は記憶に頼るしかなかった。
「そうですか。領収書類は燃えてしまったのですか」
ガックリと肩を落とした。
慣習上、収穫なし、手ぶらで査察を帰すわけにはいかない。税理士の機転もあって
「じゃあ、これだけ修正申告しましょうか」
ということで決着した。
税理士がいなければ、小杉は恨み言のひとつくらい言っていただろう。
(注四)東京・池袋サンシャインシティ:レジャー施設とショッピングセンターなどからなる大型複合施設。超高層ビル「サンシャイン六〇」が中核。一九七〇年代、東京拘置所(巣鴨プリズン)跡に建設された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます