記憶駅譚(きおくえきたん) ―スタンプと失われし想いの旅―

トモさん

プロローグ:時の流れの片隅で

世界は、記憶でできている。


そう言ったのは、誰だっただろうか。遥か昔、まだ幼かった頃に母が語ってくれた童話の一節だったかもしれないし、あるいは、父が書斎で読み耽っていた古い哲学書の一文だったのかもしれない。あるいは、もっとずっと昔、人類が言葉を紡ぎ始めたその瞬間から、誰もが漠然と抱き続けてきた、根源的な真実だったのかもしれない。


記憶は、まるで網の目のように世界に張り巡らされている。個人のささやかな思い出から、家族の絆を繋ぐ温かい記憶、地域に根差した歴史の断片、そして国家や文明を形作る壮大な物語まで。それらは全て、目に見えない糸のように絡み合い、この世界の輪郭を形作っている。喜びも、悲しみも、後悔も、希望も、全ては記憶という名の容器に収められ、時という名の河を流れていく。


しかし、河の流れは常に一定ではない。時には穏やかに、時には激しく、そして時には、その流れが途絶えてしまうこともある。記憶もまた、同じだ。忘れ去られること。失われること。それは、避けようのない摂理のように思える。


古びた駅舎の片隅で、忘れ去られたスタンプ台がひっそりと佇んでいる。インクは乾き、ゴム印の溝には埃が積もり、かつては鮮やかだっただろう朱色は、くすんだ茶色に変色している。誰もが通り過ぎ、誰もが気に留めない。ただの、過去の遺物。


だが、もし、そのスタンプが、単なる「物」ではなかったとしたら?


もし、その乾いたインクの中に、誰かの感情が、誰かの願いが、誰かの物語が、凝縮されて眠っていたとしたら?


そして、もし、その眠りから、誰かの手によって目覚める時が来るとしたら?


これは、忘れ去られようとしている記憶たちと、それらを拾い集め、繋ぎ合わせ、再び輝かせようとする一人の少女の物語である。彼女は、ごく普通の高校生だった。平凡な日常を送り、ささやかな夢を抱き、未来への漠然とした不安を胸に抱えていた。


しかし、ある日、彼女の日常は、一枚の古びた切符と、一つのかすれた駅スタンプによって、音もなく、しかし確実に、その軌道を変え始める。


それは、世界の記憶が、静かに、しかし確かに、失われつつある時代に起こった、小さな奇跡の始まりだった。


彼女はまだ知らない。自分が、どれほど壮大な旅へと導かれることになるのかを。

彼女はまだ知らない。自分が、どれほど多くの記憶と出会い、そして、どれほどの悲しみと喜びを分かち合うことになるのかを。

彼女はまだ知らない。世界が、そして彼女自身の記憶が、どれほど深く、この旅と結びついているのかを。


ただ、乾いたインクの匂いが、微かに、風に乗って、彼女の元へと届いていた。

それは、失われし想いが、彼女を呼ぶ声だったのかもしれない。

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