浮気したらどうなるか、教えてあげる。

志乃原七海

第1話「超弩級!浮気されたら空爆依頼!!」

依頼主の憎悪は、静かに深く、海淵のごとく。


旧連合艦隊の亡霊たちとの意図せぬ交信という嵐が過ぎ去り、佐藤菜々美と宇内透子の事務所には、ようやく午後の紅茶が似合う穏やかな時間が戻っていた。アンティークのカップボードに新しいティーカップを並べながら、透子は「もう二度と降霊中に推しの平安貴族のことを考えない」と、心に固く誓ったばかりだ。…たぶん、無理だけど。


そんな昼下がり、事務所の扉が、とん、とん、と控えめにノックされた。


「はーい、どうぞ」


透子がドアを開けると、そこに立っていたのは、雨に濡れた紫陽花のように儚げな女性だった。上質なシルクのワンピースは、彼女の線の細さを際立たせている。しかし、その美しい顔には深い隈が浮かび、まるで何かを堪えるように、口角が固く引き結ばれていた。…疲れてるのね。


「……こちらで、少し込み入ったご相談も、お聞きいただけると伺いましたものですから」


鈴を転がすような、しかしどこか震える声。菜々美はソファを勧め、アールグレイを淹れて差し出した。女性は「佐藤由美と申します」と名乗り、レースのハンカチを握りしめたまま、小さく会釈した。…あら、奥様、いらっしゃい。


「……夫のことで、悩んでおりまして」


由美は俯き、長い睫毛が影を作る。その仕草は、どこかぎこちなく、まるで壊れ物を扱うようだった。…無理してるのね。


「夫が……会社の部下の方と、親しげにしているようなのです。確証はないんです。でも、気になってしまって……。どうか、ほんの少しだけ、何が起きているのか、教えていただけないでしょうか。私は、どうすればいいのか……」


その言葉は、まるで糸が切れた人形のように、弱々しかった。透子はすっかり感情移入していた。

「なんてこと……! そんなのって、ひどすぎますわ! 菜々美さん!」

「はいはい、透子ちゃんは少し落ち着いて。…奥様、具体的に、どんなことが気になっているんですか?」


菜々美は冷静に、由美の爪先を見つめていた。丁寧に手入れされているものの、所々、噛み跡がある。…追い詰められてるのね。


「分かりました。お引き受けいたします。まずは、何が起きているのか、事実を把握しましょう。対象の方の情報と、何か手がかりになるようなものはありますか?」


由美は、震える手で、一枚のコピー用紙を差し出した。そこには、夫・佐藤健司と部下・美佳の名前、会社の部署、そして、二人がよくランチに行くカフェの名前が、手書きで走り書きされていた。…必死なのね。


「ありがとうございます……。どうか、真実を教えてください……」


再び深く頭を下げ、由美は静かに去っていった。その背中は、どこか頼りなく、今にも崩れてしまいそうだった。…放っておけないわね。


「よし、透子ちゃん、準備するわよ!」

「はい! 真実を暴いて、奥様を救いましょう!」


透子はすっかりやる気だ。菜々美は肩をすくめ、降霊の準備に取り掛かった。今回は、事実確認が目的。軽い霊視で、二人の関係性を探るだけ。…のはずだった。


白檀の煙が事務所に満ち、菜々美が祭壇の前に座る。

「いい、透子ちゃん? 今回は絶対に余計なこと考えちゃダメよ? 平安貴族も連合艦隊も禁止! いいわね!?」

「も、もちろんです! 集中します! …たぶん!」


透子は目を閉じ、意識を集中させた。ターゲットは、佐藤健司と美佳がよく行くカフェ。そこで、二人の間にどんな感情が流れているのか……。


――だが、その瞬間だった。


菜々美たちの降霊サークルに、外部から全く質の違うエネルギーが流れ込んできたのだ。それは、嫉妬と不安、そして、自己否定の感情が入り混じった、複雑で、混沌としたエネルギーだった。…まるで、ドロドロの沼。


「なっ……!?」

菜々美が目を見開く。降霊のチャンネルが、何者かに干渉されている!


そして、事務所の空気が一変した。

前回のような、強力な霊的存在ではない。しかし、もっと生々しく、もっと人間らしい、心の叫びが、事務所に響き渡る。…まさか、由美さんの感情!?


「――どうして? どうして、私じゃダメなの? 私は、あの子よりも、ずっと前から、あなたのことを愛しているのに……!」

「――私には、何も残っていない。あなただけが、私のすべてだったのに……!」

「――消えてしまいたい……。こんな苦しい思いをするくらいなら……!」


由美の心の声が、事務所に溢れ出す。それは、まるで壊れたレコードのように、同じ言葉を何度も繰り返していた。…まずいわ、これ!


「透子ちゃん! 早く止めて! このままじゃ、由美さんの心が壊れてしまう!」

菜々美が叫ぶが、もう遅い。

由美の感情は、増幅され、歪み、事務所の空間を侵食していく。

「私なんて……価値がない……」

「誰も、私を愛してくれない……」

「死んでしまえ……死んでしまえ……!」


由美の心の声は、次第に、呪詛の言葉へと変わっていく。

「まずいわ! このままじゃ、由美さんが悪霊化してしまう!」

菜々美は焦った。


その時、事務所のスピーカーから、ノイズと共に、由美の震える声が聞こえてきた。

「……私、どうすればいいの……? 誰か、助けて……」


その声は、あまりにも弱々しく、今にも消え入りそうだった。

「まずいわ! このままじゃ、本当に手遅れになってしまう!」

菜々美は、最後の手段として、渾身の力で叫んだ。


「由美さん! あなたは、一人じゃない! あなたには、あなたの価値がある! 自分を大切にしてください! そして、自分の幸せを、諦めないでください!」


その言葉は、菜々美自身の心の叫びでもあった。

その言葉に呼応するように、由美の感情は、少しずつ、落ち着きを取り戻していく。

スピーカーからの通信も、最後に「……ありがとう……」という小さな呟きを残し、ノイズと共に途絶えた。


事務所に、嵐の後のような静寂と、凄まじい疲労感が残った。

「……終わりました、かね」

透子が、床にへたり込んだまま呟く。

菜々美は汗を拭い、静かに言った。

「透子ちゃん。今回の依頼人、佐藤由美様。あの方の名前、絶対に忘れないでおきましょう。……私たちが今まで出会ったどんな悪霊よりも、人間の心の闇こそが、最も恐ろしいのだから」


後日、佐藤健司が会社を退職し、美佳と共に、地方へ移住したと、風の噂で聞いた。


由美は、離婚はせずに、カウンセリングに通いながら、少しずつ、自分の人生を取り戻しているらしい。


菜々美と透子は、由美の未来が、どうか幸せに満ちたものであってほしいと、心から願った。


そして、人間の心の闇に触れた二人は、浮気調査系の依頼は、しばらくお断りしようと心に誓ったのだった。

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