第18話世話係だと思ってナメてた彼氏に、フレンチレストランで刺された件
彼の名前は、なぎと。
私は、そのなぎとがいながら、自宅に担当ホストの怜央を連れ込んでいた。
なぎとは完璧な世話係だ。家事もこなし、私の仕事を黙って支える。だが、それだけ。私のステータスや稼ぎに釣り合う男ではない。彼がくれる安心感は、猛獣がペットに向けるそれに近い。だからバレなければ問題ない。それが私のルールだった。
今頃なぎとは、会社の飲み会のはず。私が彼の知らない男と、彼の整えたシーツの上で肌を重ねているとは、夢にも思っていないだろう。
怜央の甘い声が耳をくすぐった、その時だった。
カチャリ。
玄関のドアが開錠される、乾いた音がした。嘘でしょ、なぜ?
焦燥に駆られる私と、状況が呑み込めず固まる怜央。やがてリビングのドアが軋み、ゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、スーツ姿のなぎとだった。手には、私が好きだと言ったコンビニの新商品スイーツの袋を提げている。
終わった。そう直感した。
罵声か、涙か。面倒な修羅場が始まる。
しかし、なぎとは数秒、部屋の惨状を検分するように見渡した後、無表情のまま、ぽつりと呟いた。
「ああ、シーツ。昨日替えたばかりなのに」
その声は、いつもと変わらず穏やかだが、感情が一切乗っていなかった。彼は私と怜央を一瞥すると、ふ、と息だけで笑った。
「ごめん、邪魔したみたいだ。じゃあ…僕は、またあとで来るよ」
彼は提げていたスイーツの袋を玄関の床に静かに置くと、ひらひらと手を振り、音もなくドアを閉めて出て行った。
嵐のような静けさ。怒鳴られるより、泣かれるより、何百倍も肌が粟立つ。
……いや、待てよ? あの子、ショックで思考が停止したんだわ。そうだ、きっとそうだ。世間知らずで純粋な彼には、この状況を処理できなかっただけ。
私はベッドの上の怜央に向かって、虚勢を張った。
「ほらね? 大丈夫だって言ったでしょ。あの子、可愛いだけが取り柄だから」
すると彼は、怯えたような目で私を一瞥し、慌てて服を身につけながら吐き捨てるように言った。
「……あんた、逃げたほうがいい。あの男の目、普通じゃなかった」
言うが早いか、彼は逃げるように部屋を飛び出していった。大袈裟な男だ。
数日後。私たちは馴染みのフレンチレストランで食事をしていた。
あの日のことは、なぎとは一切口にしなかった。やはり何も分かっていなかったのだ。私は胸をなでおろし、罪滅ぼしのつもりで最高級のコースを彼にご馳走した。手懐けるための餌は、時々与えなければ。
「美味しいね」と微笑むなぎとは、いつも通り完璧な恋人だった。私のグラスが空けばワインを注ぎ、私がパンを手に取ればバターを差し出す。その甲斐甲斐しさが、私の優越感を満たした。
食事が終わり、デザートが運ばれてきたタイミングで、なぎとは「ごめん、ちょっとお手洗い」と言って席を立った。
私はスマホでSNSをチェックしながら、彼が戻るのを待つ。
彼が、私の席の真横を通り過ぎた、瞬間だった。
腹部に、氷のような衝撃。
何かが、深く、肉を抉るように突き刺さる。
「え……?」
声にならない声が漏れた。視線を落とす。
テーブルに広げられていた純白のナプキンが、中心からじわりと、鮮血で真っ赤に染まっていく。腹の奥が、冷たく燃えるように痛い。
見上げると、なぎとはディナー用のステーキナイフを握っていた。その切っ先は、紛れもなく私の腹にめり込んでいる。彼はそれをゆっくりと引き抜くと、私が使っていたナプキンで刃に付いた血を丁寧に拭い、静かにテーブルへ置いた。まるで食事のマナーのように。
呆然と見送る私の耳に、彼の冷たい囁きが届いた。
「言ったでしょう? 『また、来るよ』って」
なぎとは、一度も振り返らない。
取り残された私の周りで、世界がようやく悲鳴を上げた。
「きゃあああああ!」
「血が! お客様、血が!」
「誰か! 救急車を!!」
遠のいていく意識の中、私は理解した。
ああ、そうか。
『また来る』というのは、こういうことだったのか。
あの日、あの瞬間から、彼はずっと、この時を待っていたのだ。
私を見て、あの完璧な笑顔で。
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