第3話「夫婦のシワは、アイロンで伸ばしましょう。」



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### 第3話 『永遠の刻印』


「—————っ!」


声にならない悲鳴が、キャンドルの灯る静かなリビングに、赤い飛沫のように散りました。

床に崩れ落ちた健太さんは、背中を押さえ、途切れ途切れの息の合間に私を見上げます。その瞳に渦巻いているのは、灼けるような痛みと、純粋な恐怖。そして、目の前にある愛おしいものが、まったく理解できないものへと変貌してしまったことへの、深い混乱の色。


私は、ジュウ、とかすかに肉の焼ける音を立てるアイロンを片手に、静かに夫を見下ろしていました。

ほんの数分前まで、心の奥で燃え盛っていた嫉妬の炎は、今では暖炉の奥で静かに揺らめく熾火のように、穏やかで、けれど揺るぎない熱を放っています。


「……自分が、何をしたか、わかりますか?」


私の声は、まるで知らない誰かのものみたいに、低く、凪いでいました。


「な……んで……あきこ……」

喘ぎながら私の名前を呼ぶ声に、責める響きはありません。ただ、森で迷子になった子供のような、純粋な怯えだけが滲んでいました。


「大丈夫。救急車は呼びませんよ。私が、ちゃんと手当てしてあげますから」


コードごと引き抜いたアイロンを、そっとテーブルに置きます。カタン、という音が、この部屋で唯一の確かなもののように響きました。私は救急箱を取りに洗面所へと向かいます。ふかふかのスリッパの足音だけが、のたうち回る夫のかすかな呻きを伴奏に、優しく廊下に響き渡りました。


リビングに戻ると、健太さんは床にうずくまったまま。上質なワイシャツの背中は無惨に焼け焦げ、布と肌が溶け合った隙間から、赤く爛れた皮膚が痛々しく覗いています。私は何の感情も浮かべずに、消毒液とふわふわのガーゼ、それから小さなピンセットを手に取りました。


「動かないで。少しだけ、ちくっとしますよ」


眠る前の子供に言い聞かせるように優しく囁き、私は彼の背中に膝をつきました。焼け焦げ、皮膚とひとつになってしまったシャツの繊維を、ピンセットで一枚、また一枚と、刺繍を解くように丁寧に剥がしていきます。


「ぎっ……! あ……っ! やめ……!」

健太さんの体が、小さな魚みたいにビクンと跳ねます。痛みから逃れようとする彼の肩を、私は左手で、そっと押さえつけました。こんなに細い腕のどこに、これほどの力が眠っていたのでしょう。


「痛い? そう。私もね、心がこれくらい、いえ、もっとずっと痛かったのよ」


繊維を剥がし終えた生々しい傷口に、消毒液をたっぷり浸した脱脂綿を、躊躇いなく、きゅっと押し付けます。お肉の焼ける匂いと消毒液の清潔な匂いが混じり合い、なぜだか甘く、鼻の奥をくすぐりました。


**「あなたは言ったわね。『お前がいない人生なんて考えられない』と。だから、その言葉を本当にしてあげただけ」**

手当てという名の儀式が終わる頃、健太さんはぐったりと意識を手放しかけていました。私は彼を抱きかかえるようにして寝室へ運び、うつ伏せに寝かせます。


「これからは、私が毎日お薬を塗ってあげます。痕が残ったら大変。綺麗にしておかないとね」


その日から、私たちの本当の毎日が始まりました。


健太さんは熱に浮かされ、背中の痛みで寝返りひとつ打てません。私は甲斐甲斐しく看病をしました。栄養のあるスープを作り、熱いタオルで体を拭いてあげて、そして毎日、背中のガーゼを交換しました。


ガーゼを剥がすたびに、焼印のように刻まれた火傷が姿を現します。ケロイド状に盛り上がったその傷跡を、私はまるで愛しい宝物のように、恍惚として指でなぞりました。


「綺麗ね。これが、私の愛の形。世界でたった一つの、あなただけのものよ」


健太さんは私の指が触れるたび、怯えた小鳥のように体を震わせます。彼のスマートフォンは、あの日、キッチンハイターを満たしたガラスのボウルに沈めました。知らない女の人からの着信履歴ごと、綺麗に溶けて、泡になって消えていきました。健太さんは、外界から完全に守られた、私だけの鳥籠の小鳥になったのです。


一週間が経った頃でしょうか。傷口から、甘く熟れた果物のような匂いが部屋に立ち込め始めました。

健太さんが、掠れた声でお願いをしました。

「……病院に……連れていってくれ……頼む……」


私はにっこりと、花が咲くように微笑みました。

「どうして? 私の手当てじゃ、不満なのかしら」

「違う……このままじゃ、俺……本当に……」


「大丈夫よ」

私は彼の言葉を遮ると、クローゼットから真新しいワイシャツを一枚取り出しました。そして、アイロン台を彼のベッドのすぐそばに運びます。


コンセントを差し込み、ダイヤルを『高』に回すと、カチリ、という小さな音と共に、アイロンの赤いランプが愛らしく灯りました。

健太さんの顔から、サッと血の気が引いていくのがわかります。瞳が、絶望という名のガラス玉みたいに、きらきらと見開かれました。


「あ……やめ……やめてくれ……もう、二度と……」

彼はシーツを掴み、這うように後ずさります。でも、柔らかなベッドの上では、どこにも逃げ場なんてありません。


私はゆっくりとアイロンをワイシャツに滑らせます。シュー、という優しい蒸気の音が、あの日の悲鳴を、子守唄のように奏でます。


「ねえ、健太さん。まだわからないの?」

**あなたのシャツのシワを伸ばすように、あなたの心に生まれたシワも、私が綺麗に伸ばしてあげる。少し熱いかもしれないけれど、我慢して。**


完璧にシワの伸びたシャツを、彼に見せてあげました。

「あなたのすべては、私のものなの。あなたの細胞のひとつひとつも、あなたの時間も、あなたのその可愛い恐怖も。私がぜんぶ、心を込めて管理してあげる。他の誰にも、指一本触れさせないわ」


アイロンを置くと、彼の頬に手を添えました。氷のように冷たい私の指先に、彼はただ、子犬のように震えるだけでした。


「わかったら、いい子でいてちょうだい。ね?」


その瞳に浮かぶのは、完全な諦観と、私への服従の色。

ああ、やっと本当のあなたになったのね。


**この傷が、あなたが私だけのものであるという永遠の証。**

この火傷は、一生消えません。

あなたが私を裏切った証。そして、私があなたを永遠に所有するという、愛の刻印。


**ようやく私たちは、誰にも邪魔されない、本当の二人になれたのだから。**

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