エピソード5

{絵梨奈}

ベッドに横たわっていても、眠りは浅い。

暗闇の中で、わたしの意識は、じっとりと粘つく膜に覆われているようだ。

微睡みの中に、何かが蠢く気配を感じる。それは、具体的な形を持たない、得体の知れない塊だ。その塊が、徐々にわたしの内側を侵食してくる。


突然、冷たい水が、全身に浴びせられたかのような感覚に襲われた。心臓が、激しく跳ねる。

呼吸が、詰まる。

何かが、頭の中で、ガシャンッと音を立てて砕け散る。


恐怖────それだけの感情が、わたしの内側を、一瞬にして凍らせた。


「はっ!」


短い悲鳴が、わたしの喉から漏れる。


体が、びくりと大きく跳ね上がる。全身が、汗でべとついている。布団を蹴飛ばし、わたしはばっと体を起こした。


部屋は、まだ暗闇に包まれている。


まだ夜なのだ。


何も見えない。けれどわたしの内側では、まだ悪夢の残滓が、じっとりとまとわりついている。


何が起こったのだろうか。夢だ。ただの夢だ。そう、自分に言い聞かせるが、心臓の鼓動は、まだ荒いままだ。


耳の奥で、ドクンドクンと、不快な音が響く。


震える足で、ベッドから降り、立ち上がった。

ひんやりとした床の感触が、足の裏に伝わる。

冷たい、一瞬そう呟いた。

暗闇の中を、手探りで進む。壁に沿って、手を滑らせる。

しばらく伝い、ふと何かに触れた。


冷たい木材の感触だ。


その刹那、体が、不意に大きく傾く。

足元に、何かが引っかかったのだ。

バランスを崩し、わたしの体が、大きく揺れる。手が、目の前の何かにぶつかった。


ガタン!


鈍く大きな音が、暗闇の部屋に響き渡る。


その音は、耳を塞ぎたくなるほどにあまりに大きく、喉が上下する。


何かが、床に落ちたのだ。いくつもの物が、遅れてバラバラと散らばる音がする。その音に、わたしの心臓が、さらに激しく脈打った。


何が倒れたのか。


考えるよりも早く、その場に屈み込み、足元に、散らばったものの感触を探る。硬い、四角い感触。小さな棚だ。ベッドの脇に置いてあった棚であろうか。


そんなことを考える。


呼吸が荒くなる。この音で、結奈が起きてしまうかもしれない。そう考えると、焦りが、わたしの全身を駆け巡る。早く、この散らばったものを、元に戻し、静かにしなくてはならない。


未だ大音声の衝撃に震える手で、床に散らばったものを拾い上げる。手のひらに、いくつもの物の感触が伝わる。小さな置物や、読みかけの本のようなそれらを、乱暴に棚の中に戻してゆく。一つずつ、押し込むように入れてゆくと、一番下の段を締める。


二段目にしまおうと、床に手を伸ばした指先に、少し変わった感触が触れた。硬い部分と、少し柔らかい部分があり、全体的にひんやりとした感触だ。


何だろうか。

何故か他のものと違いきになってしまい、

わたしは、その物を掴み、ゆっくりと引き出した。


暗闇の中で、その形を探る。かなり大きい本のようで、表面は、ざらざらとしている。縁の部分は、少し擦り切れているようだ。


指で、その表面を触って確認する。何かわかるかもしれない。

何かの絵が描かれているような感触がある。小さな凹凸が無数にある。

その感触に、わたしの心臓が、微かに反応した。何かが、わたしの内側の奥底で、揺れ動くような、不快な感覚だ。


わたしは、その塊を少し顔に近づける。暗闇の中で匂いを嗅いでみると、微かに紙と古い埃のような匂いがする。


何だろう。


本とも違う、革張りのなにかだ。

指先が、その塊の側面を弄る。

やはり凹凸が全体に亘っていて、一部上の方に堀込が深い部分がある。文字でも書いてあるのだろうか。

わたしは、その塊の縁を、ぎゅっと握りしめた。

その感触が、なぜか、わたしの心を、ざわつかせる。わたしの内側に、漠然とした不穏さを呼び起こされる。


他のものは僅かに触っただけでなにかおおよそわかったのに、これだけは分からない。一体なぜなのだろうか。



わたしはそのままトイレに向かう。


廊下の床を、素足が冷たく叩く。ドスドスと、わたしの心臓の鼓動に合わせて、押さえ込もうとした足音が大きく響く。


早く、光の下で、この正体不明の板のようなものを確認したい。早く知りたいという焦りが、わたしの足を速める。


トイレのドアを開け、素早く中へ滑り込む。


カチリ、と音を立ててドアを閉め、わたしは一歩中に踏み入れた。

ドアが閉まる音が、わたしの内側を、さらに緊張させる。手を伸ばし、壁のスイッチを、バチンと音を立てて押していた。


天井の蛍光灯が、一瞬チカチカと瞬き、やがて、白く、無機質な光を放ち始めた。

光が狭い空間を、容赦なく照らし出し、白々しい光の中に、わたしは、手に持っていたいた板を差し出した。


光の下で、それが、はっきりと姿を現す。



古い、四角い冊子だ。

あまりにも呆気なく、わたしはそのことを受容する。

表紙は、擦れて、色褪せていた。

指で触れたざらざらとした感触は、紙の表面が、長い年月の中で変化したものだ。縁の部分は、何度も雑に触れられたのだろうか。

角が丸く潰れている。


これが何なのか。考えるよりも早く、わたしの脳裏に、「アルバム」という言葉が浮かんだ。そう、これはアルバムだ。


招待が分かり、スッキリとしたはずなのに、何故か重い、鉛のような感覚が、わたしの全身を覆う。


このアルバムの中には、一体何が収められているのだろうか。

結奈の幼少期への期待ではない。不安が、わたしの内側を、じわじわと蝕んでゆく。

何故か指先が、震える。


指はは、わたし自身の意思とは関係なく、勝手に動いている。わたしは、アルバムの表紙に指を滑らせる。ざらりとした感触が、指の腹に伝わる。


わたしは指を、意志とは関係なく、表紙の端に差し込んだ。

表紙が、僅かに開く。中のページが、ひんやりとした空気に触れて、微かに動いたように見えた。

その隙間から、ほんの僅かだけ、内側の色合いが漏れ出す。何かの色彩だ。

何であろうか。


しかし、その色は、明るさや暖かさを感じさせない。むしろ、陰鬱で、重苦しい色合いに見えた。

呼吸が、浅くなる。肺が、酸素を求めてひくつく。心臓の鼓動が、ドクンドクンと、耳の奥で、不快なほど大きく響く。このアルバムを開けば、何かが、決定的に変わるかもしれない。そんな事実無根な予感が、わたしの全身を凍らせた。

わたしは、そのアルバムの表紙を、大きく開いた。


中から、ひんやりとした空気が、わたしの顔を撫でる。

目に飛び込んできたのは──。


次の日瞬間、わたしの全身を、電流が駆け抜けるような衝撃が襲った。

内側から、冷たい何かが、喉元までせり上がってくる。息が、完全に止まった。肺が、ひくひくと細い音を立てる。


目の前の光景が、信じられない。脳が、その情報を処理することを拒否しているかのようだ。視界が、一瞬にして、ぐにゃりと歪む。その歪みの中で、目の前のものが、より一層、はっきりと、しかし悪夢のように、わたしの網膜に焼き付いた。

指先があまりに振るえ、アルバムを落としそうになる。

ハッとして慌て、両手で、それを強く掴む。


その表面の冷たさが、わたしの体温を、さらに奪ってゆく。



これは、何だろうか。

なぜ、その写真がここにあるのだろうか。



頭の中で、無数の細かい疑問が、稲妻のように駆け巡る。しかし、どの疑問も、明確な答えにたどり着くことはない。

わたしの全身から、血の気が引いてゆくのが分かる。今のわたしは、顔が真っ青になっているのだろう。


胃の奥が、冷たく、激しく収縮する。吐き出すような衝動に駆られるが、何も出てこない。

ただ、苦しい。

ひたすら、苦しいだけである。


トイレの白い光が、わたしの顔を、無慈悲に照らし出す。その光が、目の前のアルバムの中のものを、より鮮明に、しかし、より不気味に、浮き上がらせる。

この場所は、安全なはずだった。一人になれる場所で、誰も入ってこない場所だ。

それにこの場所自体友人の家だ。


だが今は、このアルバムの存在が、この狭い空間を、完全に侵食している。

わたしは、この恐怖から、どこにも逃げられないのだろう。


アルバムを握りしめたまま、わたしは、ただ、その場に立ち尽くしていた。時間が、止まったかのようだ。この手に握られたものがなんの影響を及ぼすのか、もはや分からない。ただその影響が、莫大であることは確かだった。


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