{絵梨奈}
リビングに、父の怒鳴り声が響き渡った。その声が、わたしの耳の奥で、まだキンキンと共鳴している。父は、荒々しい足音を立てて、リビングを出て行った。その足音が、部屋の外へ遠ざかってゆく。ドスドスと、重く、地面を叩くような音も、直ぐに遠のいた。
わたしは、ただ、その場に立ち尽くしていた。
父が座っていたソファが、歪んで見える。テーブルの上に、蹴飛ばされた空き缶が転がっている。
冷たい金属の光が、わたしの目に焼き付く。
玄関の方から、ガサガサと音が聞こえてきた。何かが、乱暴に漁られるような音だ。続いて、複数の物が、床に叩きつけられるような、鈍い音が響く。何をしているのだろうか。そう考えるよりも早く、父の足音が、玄関へと向かって行く。
カバンが、床を擦るゴゴゴという重い音がした。スーツの生地が、擦れるような、シャラシャラという音も聞こえる。自室に立ち寄った気配はなく、父は、そのまま、玄関へ向かっている。
玄関のドアが、バタンと、大きな音を立てて閉まった。その音が、わたしの鼓膜を破るかのように、脳髄に響く。父の気配が、一瞬にして、この家から消え去った。
リビングに、残されたのは、重苦しい沈黙と、散らばった空き缶だけだ。わたしの心臓が、激しく脈打っている。息が苦しい。肺が、酸素を求めてひくつく。
この家に、もう誰もいない。父も、母も、そしてわたしもこれからいなくなる。まるで、この空間が、完全に空白の部屋になったような、ひどい虚ろさが、わたしの内側を覆い尽くす。
身体が、勝手に動き出す。何をすればいいのか、分からない。ただ、この場所に、もう居たくない。その一心だけで足を進める。
足元に散らばった父の空き缶を、払い除ける暇もなく、走るように蹴飛ばす。カンッと、甲高い音が、静寂なリビングに響き渡る。
携帯電話を掴み、バッグの中に入れ込む。
連絡を取る他に、もっと必要な逃げるすべはないかと考える。
地図はない。現金もあまりなく、カードに金はない。
通帳しかないが、金を下ろす時間はない。だが取り敢えずバッグに差し込むと、慌てるように足踏みをした。
ふと、頭の中に、一つの名前が浮かんでいた。結奈だ。
結奈の家に行けば、この場所からしばらく逃げられる。そう、漠然と思う。
玄関に駆け出す足音が、ドタドタと床を叩く。ローファーを乱暴に掴み、足に捩じ込む。靴紐を結ぶ余裕はない。脱げそうに、蹌踉めきそうになりながら、ドアの前まで急ぎ、ドアノブを掴む。
ドアを開けた途端、冷たい夜の空気が、わたしの顔を叩いた。ひんやりとした感覚が、全身を駆け巡る。外は、もう真っ暗だ。街灯の光が、遠くで頼りなく点滅している。
アスファルトの上を、足が叩きつける。
ドス、ドス、ドス。その音が、わたしの耳には、やけに大きく響く。息が上がるとほぼ同時に、肺が、焼け付くように痛みだす。
それでも、立ち止まることはできない。
立ち止まれば、あの静寂が、わたしを捕まえてしまう。
その様な感覚がした。
公園の入り口に差し掛かった時、わたしの足が、不意に止まる。
ベンチに座ろうとそこまで全力ではしり、椅子に飛び込んだ。臀や腰を強かにぶつけた痛みが全身に伝播する。
だが、考える間もなく、携帯電話を取り出した。電話アプリを開くと、震える指で、結奈の連絡先を探した。
下の方に彼女の名前をみつけ、電話をかける。コール音が、長く、長く響く。その一秒、一秒が、永遠のように感じられる。
「…もしもし」
結奈の声が、わたしの耳に届いた。普段と変わらない平坦で、感情の読めない声だ。その声を聞いた瞬間、わたしの全身から、力が抜けるような気がした。
「…今から、行ってもいい?」
わたしの声は、震えて、掠れている。
何かを言われたような気もするけれど、正確には聞き取れない。ただ、わたしの言葉が、結奈に届いたことは分かった。
直ぐに電話を切ると、再び、走り出した。
公園を横切り、アスファルトの上を、足が叩きつける音が、加速する。ドスドスドス────その音が、わたしの内側の焦りを表しているようだ。
公園の木々が、夜の闇に溶け込んでいる。その影が、まるで、わたしを嘲笑っているかのように、長く伸び、僅かに揺らめく。冷たい風が、わたしの頬を撫でる。その風が、この状況の全てを、凍らせてゆくような気がして、寒気が襲う。
結奈の家に続く道は、ひどく遠く感じられる。
投げ出すように足を前に出す。わたしの全身は、汗でべとついている。呼吸が、もう限界に近い。しかし、倒れるには至らず、辛い状況が続く。
足が痛い。ふらつき、折れそうなのに足は止まらず、停められない。
ようやく、結奈の家の明かりが見えてきた。その光が、なぜか、ひどくぼやけて見える。足が、もつれる。最後の力を振り絞って、門の方に向かう。
門を開け、敷地内に転がり込んだ。玄関のドアが、わたしの目の前にある。
何の躊躇いもなく、手を伸ばしたが、そこでするりと手が振り落ちる。
何回かあげるが、なかなか押せない。数分がたち、ようやく上がった手で、インターホンを、乱暴に押し付けた。
ピーンポーン、と、甲高い音が、夜の闇に響き渡る。
ドアが、あまりに呑気に緩慢に開いた。
結奈が、そこに立っている。
その顔は、普段と同じ、感情の読めない表情だ。わたしの体から、緊張の糸が、プツンと切れた。気づけば、その場に、崩れ落ちる寸前だった。
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